年間第19主日(ヨハネ6:41-51)

ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め(た)」(6・41)。年間第19主日B年の朗読から学びを得るために、群衆の「つぶやく」態度に注目したいと思います。

今年は8月9日長崎原爆の日が日曜日と重なりました。聞いた話では浦上教会の信徒は投下された原爆によって12000人のうち8000人が一瞬にして命を落としたと言われています。

大きさに圧倒される浦上天主堂ですが、犠牲となった命が積み重なってあの壮麗な聖堂を成り立たせていると考えると、聖堂内に入った時祈る気持ちになるのは当然だといつも思います。報道各社も一日「祈る長崎」を報道すると思いますが、わたしたちも信仰を同じくする人々のため、またすべての犠牲者のため、一日祈りをささげたいと思います。

福音朗読に戻りましょう。あえてわたしは「群衆がつぶやく態度について」と前置きしました。皆さんの中には「ユダヤ人たちのつぶやく態度についてではないのか」と思われた方もいるでしょう。選ばれたヨハネ福音書第6章の前後関係から考える必要がありますが、第6章の舞台はガリラヤです。

ヨハネ福音書に登場するユダヤ人は、単に人種を表しているのではありません。ヨハネの言うユダヤ人は、エルサレムに住んでいて、しかもイエスに敵対する人々のことです。すると、ガリラヤでイエスを取り囲む群衆はユダヤ人と同一ではないはずですが、この表現で群衆がイエスに敵対する人々に変わってしまったことが暗示されています。

たとえば家族を扱ったドラマで「親でもなければ子でもない。出て行け」とか言って親子喧嘩する場面を見たりします。実の親子であっても度を過ぎた親不幸などで敵対的な行動を取れば、親が態度を豹変することも起こりえます。ガリラヤでイエスを取り巻く群衆は、ある時点でイエスに見切りを付け、敵対する人々、すなわちヨハネ福音記者の言う「ユダヤ人」に豹変したのです。

ではガリラヤの群衆は、いつ「ユダヤ人」に豹変したのでしょうか。彼らがイエスに対してつぶやき始めた時点で、イエスに敵対する人々に変わったのです。ただし、聖書の「つぶやく」は日本語の「つぶやく」と少し意味合いが違うことを知っておきましょう。

日本語の「つぶやく」は「小さな声でひとりごとを言う」の意味で、最初から自分の要求が受け入れてもらえずにぶつぶつ言う態度を含むわけではありません。

これに対して聖書の「つぶやく」には、最初から「要求や主張が満たされていない」ということが含まれているそうです。ですから聖書における「つぶやく」は要求が満たされないから離れて行ってしまう、要求が満たされない相手に敵意を持つ、そういうことが含まれるのです。

エスに対して「つぶやく」のは、イエスについて行くかどうかをこれから考える人ではなく、もはやイエスにはついて行かない、イエスを敵とみなす、そういう人々だということになります。当然の帰結として、イエスについて行かない人、イエスを敵とみなす人々にイエスへの信仰は育たず、自分で救いの扉を閉ざすことになります。

わたしは、信仰を成長させてもらえる人というのはそれにふさわしいタイプがあると思います。イエスへの信仰を持ち始めるきっかけはわたしたちの中にあるわけですが、イエスへの信仰を育ててくれるのはあくまでもイエスです。イエスはすべての人にご自身への信仰が成長するように導いてくださいますが、わたしたちが、イエスの導きについて行ける状態になければ、いくらイエスからの導きがあっても信仰が成長することはないと思うのです。

エスと出会った人が取る態度は3つに分けられると思います。一つはイエスの導きに全く耳を貸そうとしない人です。自分の要求がかなえてもらえるかどうかだけに興味があり、要求がかなわなければイエスの導きに聞き従おうとする気持ちなどない人です。

次に、イエスの導きを実現不可能なことと思い、イエスから去っていく人々です。イエスの導きを魅力的だと思い、いったんは聞こうとしますが、自分にはとても実行できないと決めつけてしまい、心を閉ざし、去っていく人々です。

最後に残るのは、「主よ、ごもっともです」と答えることのできる人です。わたしたちはイエスの導きに戸惑うことが多く、「なぜ?」とか「でも・・・」とかつい口にしてしまいます。

けれども、そうした思いに自分自身がんじがらめになることなく、ひとりよがりの考えを横に置き、「主よ、ごもっともです」と答える人は、イエスへの信仰が育って行くのだと思います。信仰は、人間の思いを超えたところにある導きを受け入れていく歩みです。なぜあの人ではなくわたしが責任を問われているのか、なぜ今大切な人を失わなければならないのか。人生の中で分からないことは数え切れないでしょう。

そんな中でもイエスは、わたしの信仰を育てようと常に導いておられるのです。「主よ、ごもっともです」と、自分の判断を取り下げてイエスの導きに全面的に心を開く。そうしてわたしたちはより高い信仰の高みにたどり着けるのです。

エスはわたしたちに問いを投げかけます。信仰の道を歩きたいのですか?では一切耳を貸さない人にならず、わたしの声に失望せず、心を開き、耳を傾ける人になりなさい。そうすれば、わたしがあなたの信仰を増し加え、育てます。イエスはそう呼びかけているのです。

福見教会で、大人の方が洗礼をお受けになります。大きな希望を持って、洗礼式に臨まれます。どうか皆さん、これから洗礼を受けるこの人が水と霊によって新しく生まれ、イエスの招きに「主よ、ごもっともです」と答えていけるように、共に祈りで支えてください。これから洗礼式に移ります。

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ちょっとひとやすみ
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▼8月6日は広島原爆の日、続く9日は長崎原爆の日。教区広報の関係で長崎原爆の日には長崎に滞在することが多かったが、今年は日曜日と重なり、長崎行きを断念した。地上でこれ以上ない苦しみを味わったに違いない多くの犠牲者のために、この日は一日祈りをささげた。
▼20年近く愛用した釣り用クーラーボックスが壊れてしまい、買い替えることとなった。辛抱して使ったのだなぁと感心するかもしれないが、話のオチを聞けば感心できないかもしれない。ボート釣りでベンチ代りにクーラーボックスに座っているうちに、蓋が割れ、ベンチとして使用できなくなったのである。
▼最近ときおり見るCMに、カップラーメンに載せられたティッシュボックスが嘆くというのがある。「わたしは本来こんな使い方をされるために生まれてないの。あースキルを生かして働きたい!」というものだ。まさにそういう状況である。
▼クーラーボックスをベンチ代りにするそれなりの事情もある。小さなボートにはパイプ椅子くらいの高さに作られた部分がない。すべてが船べりよりも低く設計されていて、座って釣りをするのには少々窮屈なのである。
▼そこで大きめのクーラーボックスを椅子の代わりにすると具合がよく、大漁した釣果を持ち帰るためと、釣りの時のベンチ代りとに長年貢献してきたのである。最大の原因は何か。クーラーボックスの経年劣化という部分もあるだろうが、自分自身の体重増加が致命的だったと言わざるを得ない。司祭になった時の体重は68kgだったが、いまや79kgあるのだから。そりゃあクーラーも重いわな。
▼新調したクーラーボックスもすでに使い始めているがここで問題発生。これまで通りベンチとして使用してみたところ「バキッ!」という悲鳴にも似た音が聞こえた。持ち帰って慎重に検査したが今回は割れてはいないようだった。
▼購入早々クーラーボックスを破壊しかけてしまい、これでは先が思いやられるということで、ホームセンターでプラスチックの椅子を購入することを考えている。いや椅子でなくても、厚手のまな板のようなもので間に合うかもしれない。どちらか考えて、新調したクーラーボックスをまた20年使えるようにしよう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===