年間第14主日(マルコ6:1-6)

年間第14主日B年は、「ナザレで受け入れられない」という場面を取り上げます。イエスが生まれ故郷のナザレの人々に受け入れられないのは、ナザレの人々がイエスの素晴らしい業を目にして驚いた後に、イエスの業を何に結びつけようとしたかに原因があります。ナザレの人々の過ちを繰り返さず、わたしたちがイエスを受け入れるために必要なことは何か、考えることにしましょう。

今年参加した司祭黙想会を指導した大木神父さまの説教は、とても分かりやすく、堅苦しさのまったくないものでした。大木神父さまは、今回の黙想会で手痛いミスを犯したことまで率直に話してくれました。

最後の説教の時でしたが、生活している伊万里修道院から長崎に出発する際に、今回の黙想会のために用意した原稿をお忘れになったそうです。大まかなことは頭にあったでしょうが、なるほど原稿を忘れているのを悟られないように話していたのだなと思うと、難しい話を持ち出さなかったのが納得できました。

けれども内容を落とすようなことがなかったのはさすがイエズス会士だなぁと思ったのです。その中で「黙想会は車検のようなものです」と仰っていたのが印象的でした。

車検で車を修理工場に預けて故障個所を見つけ、部品を交換したり動きの悪い部分を調整したりするように、ふだんの生活の場所から黙想会に出向いて自分の直すべき部分を探し出し、考え方を思い切って取り換えたり、調整したりする。そうやって毎年、自分と真摯に向き合う時間ですと黙想会の意義を説明してくれたのです。

毎年、ふだんの生活を横に置いて自分と向き合い、司祭としての価値はどこからきているのか、そもそも司祭職とは何なのかを問い続ける。ふだん忙しさの中でじっくり考えることができないので、黙想会の期間はとても大切です。そして、毎年毎年問い続けることも大切です。

問い続けることがなぜ大切かというと、問いかけをやめたときから、自分に都合のよい答えや、都合のよい受け止め方を探そうとするようになるからです。司祭としての価値は、本来イエス・キリストから来ますが、問い続けることをやめてしまうと、たとえば司祭としての価値をわたしが果たしてきた活動の多さや、勤めてきた年数や、影響を与えた人の数や、そうしたことで計ろうとするかもしれません。

司祭としての価値はそういう業績ではないと思います。以前の説教で触れましたが、司祭になって1回だけしかミサをささげずに死んだとしても、その1回のミサだけでも司祭であった価値があるのです。すると、やはり毎年、司祭としての価値はどこから来るのか、そもそも司祭職とは何なのかを問い続ける必要があるのだと思います。

さて、福音朗読でイエスの素晴らしい業を目にした人々は驚きの声を上げます。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」(6・2)イエスの素晴らしさはどこから来ているのか、イエスとはいったい何者なのかを問うているわけです。

しかし、人々のたどり着いた答えは、問い続けることをやめた答えでした。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」(6・3)人々はイエスの業の向こうに働く神の力を見ようとはせず、イエスをただの人として引きずり降ろすことに心が向いたのです。

わたしも、神さまが働くかどうかではなく、その人の出身や人間関係で計られた経験があります。中学校から神学校に入り、最初の夏休みに日曜日のミサに来た時に、大人の人たちがわたしの話をしていました。「輝あんちの息子の神学校に行ったってや。なんのそん、輝あんちの息子の神父さまにならうっとっちかよ。」父親の輝明が若いころにやんちゃであったことは聞いていましたので、わたしには言い返す言葉はありませんでしたが、心の底から見返してやろうと思ったことは確かです。

そんなわたしを通してでも神さまは働きました。イエスの業はどこから来ているのか、イエスとはいったい何者か、辛抱強く問い続ける必要があります。たとえば母マリアは、わが子イエスにまつわる様々な出来事を心の中で思い巡らし、その意味を深く問い続けました。しかし当時の人々は問い続けることをしませんでした。

わたしたちも、当時の人々の過ちを繰り返してはいけません。わたしたちにとって問い続ける価値あるものがいくつかあります。イエスとは一体どなたですかという問いもそうですが、ほかにも祈りとか、秘跡についても問い続ける辛抱強さが必要ではないでしょうか。祈りの価値はどこからきているか、そもそも祈りとは何なのか。洗礼・聖体・罪のゆるし・結婚の秘跡の価値はどこから来ているのか、そもそも秘跡とは何なのか。恵みのたびに問い続ける必要があります。

問い続けると、恵みの出所がどこなのかよくわかるようになって、もっと祈りや秘跡を大切にするようになるでしょう。問い続けることをやめると、いくら祈っても聞き入れられないとか、これこれの秘跡の恵みは小さいころさんざん受けたのでもう要らないとか、恵みを間違った答えに引きずり降ろしてしまうのです。

わたしが、神から受けている恵みや、秘跡などを通して受けている生き方について、これからも機会あるごとにその出所を問い続ける人でありたいと思います。見えるものを通して見えない神の働きに目を向け、感謝できる人になれるよう、このミサを通して取り組む力を願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼病人訪問のときに使用する儀式書、もう23年も使い続けているが、ビニール製の表紙に押して貼られた銀製の文字も、完全にすり減って分からなくなっている。時の流れ、時間だけがなしうる業だと思う。
▼さてこの儀式書、手にしっくりなじむのはよいのだが、ハンドバックに持ち歩いていざ取り出すと、上下逆さまに儀式書を開くことがしばしばある。最近はこういった小さなことがストレスを感じさせる。
▼ときどき、「逆さまに開くことが多いということは、一旦逆さまにして開けば、正しく開くことが多くなるのではないだろうか。」そう思って儀式書を開く前に逆さまにして開いてみる。また、上下逆さまになっている。
▼聖体拝領の儀式を病人の前で執り行いながら、儀式を行っている司祭は儀式書が上下逆さまになったことに苛立ち、腹を立てながら聖体拝領の儀式をすることになる。何ともお恥ずかしい話である。
▼50歳を前にして小さなことにストレスを感じたりイライラを募らせることが多くなった。司祭館を出る際玄関の鍵を閉めるが、頭の中は次の動作「車に乗る」ということで占領されていて、鍵束の中から車の鍵を選んで玄関の鍵穴に挿そうとする。
▼「違う違う」と思い、そこでイラッと来て車に向かい、いざ車の前に立つと今度は玄関の鍵を握っている。車の鍵穴にはさすがに玄関の鍵は入らないが、連続して間違えたことにまたイライラする。いずれにしても、以前よりも行動が矛盾していることが多くなり、イライラは募るばかりである。
▼昨日も、シャワーを浴びていて試供品のシャンプーを忘れないうちに使おうと思い、小さな袋を破って手に取り、使用したら予想以上に粘りがありまったく泡立たない。変だなと思ってよくよく見ると、まったく同じ大きさ・デザインのコンディショナーの試供品だった。コンディショナーを使った後に、あらためてシャンプーを使うこの苛立ち。どのように表現すればよいだろうか。
▼この日は追い打ちをかけるように、洗濯に回す前に体を拭いてからと思って広げて準備しておいたタオルを無視して、洗濯したてのタオルを体拭きに使い、途中準備しておいたタオルに気付いてまた腹を立てた。こうした「小さな苛立ち」で、胃ガンにでもなったら最悪の人生である。
▼そう言えば、最近聖堂内で聖体を安置する聖櫃の鍵が故障した。ここ1ヶ月ほど、スムーズに開けたり閉めたりできなくなっていたが、とうとう閉めれば開かなくなり、開ければ閉まらなくなるという状態になった(この聖櫃に限っては、「開かない、閉まらない」とイライラして無理にこじ開けたりはしていない。これだけは弁明しておく)。某修道会で販売している聖櫃、何十万円するのかなぁ(泣)

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===