年間第11主日(マルコ4:26-34)

今年の年間第11主日はマルコ4章の「成長する種」のたとえと「からし種」のたとえが語られました。神の国についてのたとえを語るイエスから、わたしたちが人に神の国を語る姿勢を学びたいと思います。

今週の福音朗読は、神の国についてのたとえ話が2つ挿入されて語られています。この朗読個所を説明するのに、何か別の例えを話すということにすごく抵抗を感じました。

エスが「神の国は次のようなものである」(4・26)とたとえ話を語る。イエスがたとえ話を語っているのに、わたしが「これは、たとえて言えばこのようなものですよ」と言うのはふさわしくないのではないか、たとえ話を台無しにすることにならないかと考えたのです。

エスのたとえで、神の国は十分語り尽くされている。そう信頼して語られたたとえに向き合う必要があります。人が土に種を蒔きます。種は芽を出して成長します。成長の仕組みを知ることのできないわたしたちにはとても不思議に見えますが、いくらどうなっているのかを追及しても、わたしたちには解き明かせません。

けれども農夫は、この不思議な種の実りに信頼を寄せ、農夫にできること、すなわち水をまき、雑草を取り除くなどして世話をします。すると、種に書き込まれた神の設計図に沿って、確実に実を結んでいきます。

これが神の国の姿をうまく言い当てているとイエスは語ります。神の国(神の支配と言ってもよいでしょう)は目には見えず、いつ頃にどこまで及んでいるかを計算することもわたしたちにはできません。しかし神の国は、神が思い描いた設計図に沿って確実に広がりを見せるのです。わたしたちはただ、神の働きにそれぞれが協力するのです。

からし種が成長して空の鳥が巣を作るたとえも、不思議な出来事です。鳥は、どのようにして巣を作る技術を手に入れたのでしょうか。両親から巣のこしらえかたを学び、練習したのでしょうか。わたしたちはそれを知る方法がありません。神が鳥の本能に、巣を作る設計図を書き込んでおられるとしか説明のしようがないのです。

どんな鳥でも、雛を育てるために巣を作ります。わたしたちができるのはただ、鳥に巣作りの場所を提供することくらいです。人間はわずかしか協力できなくても、そのわずかな人間の協力の上に、神は驚くほどの働きを積み上げてくださいます。神の国は、人間が神の働きに協力するのを喜びつつ、神が描かれた設計図通りに広がっていくのです。

今説教を聞いている皆さんは、ここまでの話を聞いて、「今週の説教だったら、わたしでも話すことができる」とお考えのことでしょう。きっとその通りだと思います。イエスのたとえ話に、人間に過ぎないわたしがいったい何を付け加えたり差し引いたりすることができるでしょうか。

あえて、1つだけ言うとしたら、イエスが「多くのたとえで御言葉を語られた」(4・33)このことにじっくり留まってみるべきだということです。イエスは、実に的確に、神の国について、たとえ話を語られたのです。それは何を意味しているのでしょうか。

それは、イエス神の国について、だれにも説明を受ける必要がないほど完全に理解しておられたということを意味しています。完全に理解しておられるから、それをたとえを引きながら説明することができるのです。物事の本質を、的確に掴んでいるから、それをたとえを用いてわかりやすく説明することができるのです。

わたしたちの信仰生活を振り返ってみましょう。わたしたちは、信仰の遺産の一部でも、たとえを用いてわかりやすく説明することができるでしょうか。たとえを用いてわかりやすく説明できるということは、たとえようとしている信仰の遺産を十分に理解していることを意味します。

わたしたちは祈りを大切にしています。祈りがいかに大切か、祈りが生活に何を添えてくれるのか、よくよく理解しているなら、それをたとえを用いて人に説明することができるはずです。

祈りは呼吸にたとえられます。人は呼吸をします。息を吸って、吐くことで、新鮮な酸素を体中にめぐらせます。呼吸することでぼんやりしていた頭はすっきりして、体も活力がみなぎってきます。そのように、祈りはわたしたちの魂に必要な酸素を行き渡らせ、魂の働きを活発にするのです。祈りを怠る人は、魂に新鮮な酸素が行き渡らず、不活発になるのです。このようなたとえは、祈りに冷淡な人にも通じるでしょう。

わたしたちは聖書にもっと親しむべきです。聖書に親しむきっかけは何度か用意してもらいました。聖書愛読運動や、浜串小教区独自の録音聖書での読み聞かせなどです。

聖書に親しむ人ことは、たとえるなら辞書を引いているようなものです。聖書を何度か通して読んでみて、わたしはそういう答えにたどり着きました。聖書に親しむと、自分が語る言葉、自分が人に伝えたい言葉を聖書から探すようになります。そうやって聖書から生活に必要な言葉を探すようになれば、ここまで聖書は人の生活を導くのだと、聖書に全く触れたことのない人も心を開くのではないでしょうか。

信仰の遺産は、朽ち果てていっては何にもなりません。価値あるものだと次の世代に理解されなければなりません。そのためには、イエス神の国を多くのたとえで語られたように、受けた信仰を十分噛み砕いて、次の世代に分かるようなたとえを添えて伝える必要があります。

どんなたとえなら、受けた信仰を十分に伝えることができるでしょうか。「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(4・34)と言われるイエスが、わたしたちにも照らしと導きをくださいます。信頼して、どんどんたとえを生みだして神の国を告げ知らせるものとなりましょう。わたしたち以上に、わたしたちを通して神は常に働いてくださいます。

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ちょっとひとやすみ
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▼何ヶ月ぶりかに(「何ヶ月かぶりに」と、どちらだろうかと悩んだ結果、「何ヶ月ぶりかに」を選択した)診療所に行って薬をもらいに行った。診察手帳に「血液検査」と前もって書かれていたので、今回はそのつもりで行ったのだが、1つ誤算があった。
▼「血液検査」は織り込み済みだったが、血液採取の時に脇に「紙コップ」が置いてあった。「あれ?」と思ったが、尿も採取してきてほしいということだった。わたしはほぼ毎日、朝8時にトイレで大小を済ませる生活をしている。困ったと思った。
▼尿採取のためにトイレに行ってみると、意外なことにすんなり尿が出た。8時にトイレに行って病院に来たのに9時過ぎにちゃんと尿を採取できた。次から、薬をもらう以外に何かが予定されている時には「尿検査」もあるに違いないと心の準備をしておこう。
▼血液と尿の検査結果がそろったところで、担当医の診察。数値を見て「すべて正常値の範囲内に収まっています」と説明してくれた。このあとわたしが言われたのは「このまま、今の生活を維持してください」という言葉だった。
▼内心わたしはニヤッとしたのだが、「今の生活」とはどういう生活だろうかと思い返した。4月から食事の賄いをしてくれるシスターの派遣がなくなり、なんとなく自炊をしている。そして6月にしてはやけに日焼けしている。これが「今の生活」である。
▼自炊。「なんとなく」であって、三大栄養素がどうのこうのとか、そんな気のきいたレベルではない。ただ食べているだけである。しかも1ヶ月もしないうちに自炊に疲れ、同級生の司祭のところに晩ご飯を転がり込んだり、差し入れが来ればそれだけ食べて栄養のバランスを考えなかったりの生活である。
▼もう1つ、釣りに去年よりも行くようになった。月曜日によく集まっていた司祭たちのテニスも去年から今年は全く実施されておらず、月曜日はもっぱら釣り三昧である。おかげで釣りの腕前はかなり上げたと思う。釣った魚は、晩ご飯をごちそうになりに行く同級生の司祭に持って行ったり、近くに配ったり。この前病人見舞いに行っている家に差し入れた。すると栄養ドリンクが1ケース返って来て、かえって世話を焼かせてしまった。
▼鯛ラバでの鯛釣りは、リラックスと集中力を同時に試される。これまでの経験で、釣ってやろうと焦っていると魚は殺気を感じ、警戒して逃げ去ってしまうように思う。あくまでもリラックスして、魚に気配を悟られないようにする。魚が喰いつけば、今度は魚の動きに合わせてやり取りし、取り逃がさない集中力が必要になる。
▼3kgの鯛や2kgのキジハタ(ノミノクチ)が釣られまいと逃げる。魚が逃げるとき慌てると、0.8号の道糸に3号のショックリーダーというラインシステムは簡単に切られてしまう。リラックスと集中。それが釣りにも人生にも必要なのである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===