年間第12主日(マルコ4:35-41)

年間第12主日は、「突風を静める」という物語ですが、わたしは違う言いかたで、テーマを示したいと思います。それは、「イエスと向こう岸に渡る弟子たち」です。弟子たちは、向こう岸に渡るという出来事の中で、弟子として訓練を受けたのだと思いました。

釣りに関して、海の上で耐えられる限界というのがかなり上がったと思います。今まででしたら、気分が悪くなっていたような状況でも釣りに集中できるようになりました。それがどんな役に立つのかと言われると困りますが、ほとんどの人が船酔いするような状況でどんな作業でもできるようになったと言えば、何か役に立つかもしれません。

ところで今日は父の日です。日頃の御苦労を、家族でぜひねぎらってあげてください。または、お父さんがふだんは忙しくてできないことを、今日一日くらいは気の済むようにさせてあげてください。母の日と比べると、ちょっと影が薄いので、今日はお父さんに花を持たせてください。

福音朗読、イエスは弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と呼びかけます。漠然と「向こう岸」と言っていますが、その意味は「イエスと一緒に渡らなければ渡ることができない場所」と考えられます。そのことを学ばせる機会として、嵐の体験があると考えてよいのではないでしょうか。ガリラヤでずっと漁師をしていた弟子たちでさえも、「おぼれそうだ」と感じるほどの突風を受けたのでした。

明らかに、人間の努力では乗り越えられない困難に弟子たちは置かれています。そんな中でイエスは眠っています。これは眠くて眠っているのではなく、しるしです。「人間の努力でこの困難はとても乗り越えられない。そこにイエスがおられる。イエスに信頼を寄せるべきである。」このことを教えようとしているのです。

エスは「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに声をかけた時点で、これから起こることすべてをご存知でした。弟子たちが混乱すること。イエスにより頼めばすぐにでも助けてくれるのに、イエスに信頼を寄せる気持ちが湧かなかったこと。イエスが嵐を叱り、すっかり凪になってもまだイエスを信じられずにいることなどです。

突風に見舞われ、恐れで自分を見失い、イエスの一言で風がやみ、すっかり凪になる。イエスが「向こう岸に渡ろう」と仰ったのだから、必ず渡ることができるはずです。それなのに弟子たちは、イエスがそばにいることを忘れるほど取り乱したのでした。

嵐のさなかに眠っているイエスの姿は、御父に信頼を寄せていることの表れです。イエスは、何が大切なのかを教えようとしているのです。乗り越えることができそうにない困難を前にしたとき、人はイエス・キリストを通して御父に信頼を寄せる必要があるのです。

エスの助けを受けて向こう岸に渡った弟子たちは、「向こう岸に渡る」つまり困難を乗り越えるためには、イエスに全面的に信頼を寄せることが必要であることを学びました。弟子たちの体験はわたしたちのためでもあります。わたしたちも乗り越えられそうにない困難に直面することが考えられます。その時に弟子たちの体験を思い出すように促しているのです。

ただし、弟子たちに起こったことはわたしたちにも起こるでしょう。それは、イエスがそばにいるにもかかわらず、困難に直面して気が動転し、また困難を乗り越えられたとしてもそれがイエスによるものだと理解できずにいるということです。

弟子たちはイエスに信頼を寄せることが困難を乗り越える何よりの力であると確信するまでに、相当の時間を必要としました。わたしたちもきっと、イエスに揺るぎない信頼を寄せるには長い時間を必要とするでしょう。

エスに信頼しきれずに道を誤ったり、また時間がかかってもイエスに信頼すべきだったと立ち返ったり、何度も行ったり来たりして、わたしたちはイエスに信頼することが最善の策だと悟り、最終的に向こう岸に渡ることができるのだと思います。

エスはすべての人に、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけます。わたしたちが今いる場所に留まっていては、イエスに絶対的な信頼を寄せる体験を積むことはできないのです。おぼれそうになる体験、恐怖を覚えるほどの体験を経て、わたしたちの信仰は火で精錬された鉄のように強くなるのです。

エスは決してわたしたちをおぼれさせることも、恐怖に打ち負かされることもお許しにならない方です。信頼して、信仰の旅をこれからも続けてまいりましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼6月28日にお告げのマリア上五島地区の「四季の静修」という集まりがあって、今回はわたしが講話の担当となっていて、会場も浜串教会で行われる。講話を1時間くらいする予定だが、かなり早くから依頼されていたにもかかわらず、なかなか完成しないでいる。
▼言い訳がましいが、予定調和というか、いよいよにならないとすべての材料は揃わないもので、あーこれですべてが揃ったと感じないと、講話も完成しないことになっているようだ。自分のことなのに「ようだ」とは何事かと思われるかもしれないが、しばしばギリギリまで完成しないのである。
▼中心となるキーワードはかなり前から浮かんでいた。それは「わたしたちを見なさい」という言葉で、神殿で物乞いをしている人にペトロが語りかけた言葉である。それに続くペトロの言葉は次の通り。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
▼ペトロの証しを、修道者の皆さんも生きる必要があります、というのが大きなテーマだが、このテーマを肉付けするこまごまとした材料集めが、かなり日数を要したわけだ。最近でも18日、特別養護老人ホームカトリック信徒のお見舞いに出掛けて思うところがあり、これも材料の一つとなる予定である。
▼ギリギリまで材料が浮かんでは消え、浮かんでは消えして、そのうちに本当に必要なものだけが消えずに残っていく。そこまで待って、原稿にしたためるわけだ。こういう準備の仕方を可能にしているのは現代のさまざまなIT機器だと思う。
▼わたしの尊敬する大学教授は、葉書大のカード4枚で、1回の講義を進めていた。カード4枚しか、講義に持ち込んでこなかった。敬服するが、真似は出来ない。カードと筆記用具では、おそらくわたしのような人間は準備はできなかっただろう。現代文明に感謝である。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===