キリストの聖体(マルコ14:12-16,22-26)

今日キリストの聖体の祭日です。これまでどのような心構えでご聖体に近づいていたかを振り返ってみましょう。そして本来はどのような心構えで近づくべきなのかを考えることにしましょう。イエスは常にご自分のすべてをご聖体を通して与えようとしておられます。イエスの深い愛は、わたしたちにどのような答えを求めておられるのでしょうか。

今から8年前でしょうか、司祭叙階式の説教を任された受階者の主任司祭が行った説教は実に心に残るものでした。司祭に叙階された人がイエスの僕として真っ先に行うわざはミサである。叙階の秘跡を受ければ、ゆるしの秘跡をおこなうことも、病者の塗油を授けることも可能だが、あらゆるわざの中で、真っ先におこなうのはミサである。

そして、もしもの話であるが、叙階の秘跡を受けたその人が、真っ先におこなうそのミサを終えて、死んでしまったとしても、その1回のミサのためにその人が叙階の秘跡の恵みを受けたことには価値がある。

たとえその後ゆるしの秘跡をおこなえず、病者の塗油も授けずにたった1回のミサをささげただけで死んでしまったとしても、その人が司祭になったこと、叙階の秘跡の恵みを受けたことには十分価値がある。およそこのような内容の説教だったと思います。

それまでに何度も叙階式の説教を聞いたにもかかわらず、わたし自身の司祭叙階の時の説教も含めて、どれ1つとして覚えていないのに、その時の説教は今も思い出すことができます。わたしにとって心打たれる説教でした。なぜなら、ミサをささげるときの心構えをもう一度考え直すよい機会になったからです。

仮に年間400回くらいミサをささげてきたとして、22年の司祭生活で8800回くらいはミサをささげているわけです。しかしながら、「最初の1回のミサをささげて死んだとしても、その人が司祭に叙階されたことには十分意味がある。ミサはそれほどに価値あるものだ」という理解にはたどり着いていませんでした。それほどのミサを、何千回もささげてきているのに。心構えが足りていなかった自分に、精神をたたき直すような強さで迫って来たのです。

まさに、今日祝っているキリストの聖体の祭日に求められる心構えが、あの時の司祭叙階式ミサでなされた説教にまとめられているように思います。ご聖体は、御父にささげられた完全ないけにえであるイエス・キリストがとどまっている秘跡です。人類のすべての罪を完全に消し去るいけにえとなられたイエス・キリストがとどまっておられるのです。

また、ミサはイエスの死を通して新しい契約を成し遂げ、救いのわざを完成させた出来事を今に再現させる祭儀です。一度限りで、完全に救いを成し遂げた十字架上の出来事と同じ価値を持つ最後の晩餐です。これより尊いものがない最上の主の食卓です。そのミサが今ここにささげられ、その中で聖体が用意され、わたしたちは恵みにあずかるわけです。

1回のミサのために司祭に叙階され、命を召されてもそれでも価値があるミサであると、これまでわたしは考えたことがあっただろうか。恥ずかしく思いました。それほどの価値があるのに、心は散漫になり、ミサの奉献文を唱える口は熱心さに欠け、聖体を高く掲げる手は力なく、聖櫃に向かう足取りは重くなることがあったのです。

一人ひとり思い出してみましょう。聖体祭儀と言われるミサに足を運びながら、ミサをさっさと終わらせて次は何をしようかと考えたことはないでしょうか。「今日は何時何分に終わった」と、ミサが行われたというミサの価値よりも、終わった時間のほうを気にしたことはないでしょうか。1日に2回ミサをささげることがあるわたしは、1回目と2回目では心の込め方が違ったのではないか。

これまでわたしたちがどのようにご聖体に近づいていたか、自分なりの反省が見つかったならば、これからどのように近づくようにすればよいかも見えてくると思います。このミサは旧約時代の過越の食事とも関係しています。わたしたちはご聖体に対するこれまでの不熱心さを超越して、熱心さをあらためて呼び覚まし、ご聖体に近づきましょう。

先週あたりにお知らせを入れるべきだったのですが、昨晩から今朝にかけて、青砂ヶ浦教会では召命祈願のため、徹夜での聖体礼拝を行ったそうです。熱心さをもって聖体により近づく、聖体から片時も離れない心を育てて、聖体の奉仕者である司祭・修道者を与えていただけるように願っての聖体礼拝でした。わたしも夜中の時間に1時間だけ参加させていただきました。聖櫃に納められた聖体から、参加している皆に、小教区全体に、恵みを注ぎ続けているのだなと感じました。

わたしたちに記念として残された聖体の尊さを考えてきましたが、最後に次のことに目を向けて結びたいと思います。イエスは最後の晩餐で杯を取り、「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(14・24)と仰せになりました。今ここには、限られた人数しか聖体祭儀に集まっていませんが、もっと多くの人のためにも、ご聖体の恵みは流れ続けているはずです。恵みを知らずにいる多くの人々とご聖体の恵みの橋渡しをするのは、わたしたちです。ぜひここで受けた恵み、今心にある熱意を、出かけて行って人々に届けましょう。

祭壇で霊的に渡されるイエスの御体、流されるイエスの御血を、人々に届ける奉仕者にしてくださるように、聖体拝領を通して願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼おそらく上五島でいちばんゆうちょATMの前で長く居座って機械を占有しているのはわたしだと思う。わたしは3ヶ月に1回くらいしか郵便局窓口に姿を現さず、ほとんどはATMで入金処理をしている。
▼どんな入金の用件か、読者は容易に想像がつくと思う。教会では日曜日ごとにミサ献金が集められ、主任司祭はそれを台帳に記録し、年度ごとの予算決算で本部事務局に報告する。具体的な金額は割愛するが、日曜日に信徒が仮に200人集まり、1人50円ずつ献金すれば、金額も硬貨の枚数もそれなりの数になる。
▼これを毎週ゆうちょ銀行に持ち込むと、通帳にも記録が残って重宝するが、持ち込む側に立って考えると毎週は煩わしい。そこで1ヶ月分まとめて入金に赴くことになる。当然先ほどの約4倍の硬貨の数になる。しかも教会は3教会あるわけで、それぞれの通帳ごとにATMに張り付いて何十枚何百枚もの硬貨を入金することになる。
▼仮に100円硬貨で4万円の賽銭を持ち込むとしよう。ATMは一度に100枚までしか硬貨を受け付けない。複数回に分けて入金するため、硬貨をあらかじめ100枚以内に小分けし、通帳を機械に差し込むとすぐに片方の手のひらに硬貨を100枚乗せる。
▼硬貨の投入口は店舗によってはガマ口のように大きく開くこともあるが、上五島ではすべてのATMが貯金箱の口のように細いスリットから硬貨を投入する形になっている。ここに、片方の手のひらに山盛り積み上げた100枚の硬貨をもう片方の手で手際よく滑り込ませる。
▼ご存知かどうか分からないが、ATMの現金投入には制限時間がある。いまだに制限時間を把握していないが、制限時間内に紙幣・硬貨を投入しなければ勝手に機械が投入口を閉ざし、その時点で投入されている金額で計算をし始める。だから制限時間内に手早く、確実に投入するには熟練した技が必要なのである。
▼日常生活でスリルを味わいたい方、硬貨を100枚用意して、ぜひATMに立ち寄って入金作業を体験されるとよいと思う。制限時間内に投入しなければという焦りで、スリル満点間違いない(硬貨100枚の最小金額は100円であるが、100円で入金作業を受け付けるかどうか、まだ試したことはない)。
▼今は制限時間内に安全確実に投入できるようになったが、かつては制限時間で投入口が閉められ、腹立たしい思いをしたことが何度もあった。機械に当たっても仕方のないことであるが、人間と機械の真剣勝負が、毎月岩瀬浦郵便局や奈良尾郵便局、あるいは青方郵便局で繰り広げられているのである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===