神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)

神のいつくしみの主日と呼ばれるようになった復活節第2主日、神のいつくしみをまずイエスを信じるわたしたちが知り、イエスをまだ信じていない人々にどのようにしたら神のいつくしみが届くかを考えてみましょう。

復活の卵の当たりくじ、あと2人受け取りに来ていません。景品の10個入りパックの卵は、あと二、三日もすればヒヨコになって逃げて行ってしまいます。心当たりの方は今日中に受け取りに来てください。

自炊も2週間になりました。作った中で、おいしくなかったものとおいしかったなぁというのがあります。まったくおいしくなかったのは野菜炒めです。野菜が嫌いだからではなく、おいしくなかったのです。わたしが作ったものは「野菜炒め」ではなく、「野菜炒めた」です。「野菜炒め」は料理ですが、「野菜炒めた」は料理とは言えません。

おいしかったものがあります。ラーメンです。まっすぐの麺が2束入ったものを買い置きしていますが、麺や具を調理してお湯を決められた分量の3分の2に減らし、あと3分の1は豆乳を足してひと煮立ちしたら調味料を入れて完成です。この豆乳を「投入」するところがポイントでして、クリーミーでおいしかったです。これからも、「これはうまい」「これは最悪」という料理が出来上がったら報告します。

復活したイエスは、幾度となく弟子たちに現れます。今週の朗読で二度にわたって復活したイエスが現れ、「あなたがたに平和があるように」(20・21,26)と言っています。イエスは弟子たちに平和を与えます。イエスが与える平和を届ける道具として、弟子たちは選ばれました。

復活したイエスが弟子たちに現れ、平和を与えてくださいましたが、もしイエスのほうから何も言葉を発しなかったとしたら、その場の雰囲気はどうなっていたでしょう。きっと緊張が走り、場面は凍りついたと思います。イエスは弟子たちが逃げ去った中で、十字架にはりつけにされてお亡くなりになったからです。復活したイエスが、裁きをもたらすためにやって来たとしても不思議ではない状況で、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。

どんなに弟子たちは救われたことでしょう。自分たちの弱さや罪を嫌でも思い出すことになる場面で、イエスは何も責めず、ご自分から近づいて和解の手を差し伸べられたのです。「手とわき腹とをお見せになった。」(20・20)イエスは、どんな場面にもご自分を和解の道具として与えてくださり、そこに平和をもたらしてくれるのです。

これが「神のいつくしみ」の姿なのだと思います。わたしたちがいつくしみを注がれるのにふさわしいから神がいつくしみを示しているのではなく、まったくふさわしくなかったのに、みずから近づいてくださり、いつくしみの手を差し伸べてくださるのです。

弟子たちは、復活したイエスを通して、「神のいつくしみ」の姿を間近に見ました。トマスが復活したイエスの最初の出現に立ち会えず、八日の後に出会った時も、頑なに心を閉ざしていたのにイエスが近づいてその心に触れ、いつくしみの手を差し伸べ、平和の絆で結び合わせたのです。弟子たちは二度にわたって、神が人間にどのようにいつくしみを示されるのかを体験しました。

弟子たちは、自分たちの体験を人々に届けに行く使命を受けます。神は人間がいつくしみを注ぐのにふさわしいからいつくしみを示したのではなく、まったくふさわしくなかったのにいつくしみの手を差し伸べられた。この体験を人々に届けに行くのです。

その第一の方法は、イエスに注がれた聖霊によって、人々の罪を赦すということでした。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)この使命は選ばれた弟子たちを通して、また弟子たちの後継者である司教と、その協力者である司祭によって届けられます。

信徒はどうでしょうか。信徒もまた、神のいつくしみを人々に示すために、互いにゆるしあい、また家族でゆるしあい、平和の絆を保つようにすることができます。もう1つ、すべての信徒にできることがあると思います。それは、今こうして集っているミサに、より多くの人を導くことです。

復活したイエスは、祭壇上で特別のいつくしみを示してくださいます。それは、十字架上で一度きりささげられたいけにえを、繰り返し祭壇上でささげてわたしたちを恵みにあずからせてくださいます。ミサは、みことばと聖体によって神のいつくしみを最高に表す祭儀です。このミサに集う人は、男性も女性も、子供も大人も、健康な人も病人も、互いに平和のあいさつを交わし、すべて平和の絆で結ばれるのです。

わたしたちはこのミサに、より多くの人を導く必要があります。少なくとも、声をかけることはできます。「神のいつくしみが特別に示されているミサに、あなたも来てみませんか。」こんな形式ばった言葉でなくてもよいので、あなただったらどんな声をかけられたら「一度行ってみようかなぁ」と思うか、それを言葉にしてほしいと思います。

みなさんの近くに、ミサの中で示される神のいつくしみに触れてもらいたい人はまだまだいるはずです。あなたが、みことばと聖体によって神のいつくしみを感じることができるなら、ぜひ身近な人にも同じ体験ができると伝えに行きましょう。あなたがミサの中で味わっている神のいつくしみが、人々に神のいつくしみを届ける何よりの力の源です。

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ちょっとひとやすみ
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▼結果的に事無きを得た話。聖週間の説教を前もって受難の主日前に準備して配信する作業をした中で、危うく失敗するところだった。それは、聖なる三日間に対応する「今週の一枚」のリンクと、録音説教のリンクの日付が間違ったまま配信されるところだったのである。
▼まずどのように間違っていたかだが、今年の聖週間のメルマガ配信の土台になる資料は、かなり前から作成してある。「土台になる資料」とは、たとえば「○○○○主日/マルコ○○○○」というような下書きの資料である。およそ2年前に作成されていた。
▼その中で、2015年の聖なる三日間の日付を、4月9日(木)・10日(金)・11日(土)と思い込んでいたのである。実際にはすべて一週間早いわけだが、2年前作成した時には正しい日付だと思っていた。
▼復活の主日(日中)までのすべての配信予約を完了し、あとは実際に配信されるだけという段階になって、聖なる三日間の「今週の一枚」のリンクと、録音説教のリンクの日付が間違っているような気がして確かめてみたら、やはりずれていた。このまま配信していたら、正しくリンクを作成したと思い込んでいるわけだから、きっと間違いに気付かなかっただろう。録音説教も永遠に聞けずじまいになるところだった。
▼この間違いに気付いたのはヒョウタンからコマ、想像もできないような偶然からだった。復活の主日(日中)の「ちょっとひとやすみ」に目を通していたところ、「おや?」と思う部分が見つかり、このまま配信すると重大な間違いになる可能性が考えられた。そこで4月5日の配信予定の「ちょっとひとやすみ」を書き換え、配信し直そうとした時に偶然聖なる三日間の部分の間違いにも気付いたのである。
▼復活の主日(日中)の「ちょっとひとやすみ」を書き変えねばならないと気付いたのは3月27日の金曜日、すでにマリア文庫の会員と熊本の国立ハンセン病療養所の入所者を慰問するために熊本に向かう時だった。この日までに、受難の主日から復活の主日(日中)まですべての配信予約は終えてあるから、復活の主日(日中)の「ちょっとひとやすみ」だけの間違いだと思い込んでいたら、聖なる三日間のミスはそのまま配信されていただろう。直前に関連する間違いにも気付くことができ、ほっと胸をなでおろす。
▼配信スタンドにログインし、再配信が可能かを確認。あるマガジンスタンドは「編集し直して再配信」が可能だったが、あるスタンドは「配信予定としているものをいったん解除し、あらためて正しいものを用意して再配信」というスタイルだった。
▼いずれにしても、受難の主日までに、すべての配信予定が正しいものに差し替えられ、事無きを得た。「間違ってないだろう」「間違ってないはず」は、人間が犯しがちな最大の間違いであると、今回は学習した。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===