聖木曜日(ヨハネ13:1-15)

聖木曜日、イエスが最後の晩餐で弟子たちの足を洗う場面が朗読されました。イエスが弟子たちの足を洗ったのは聖体の秘跡を制定された最後の晩さんの中でのことでした。朗読の部分に最後の晩さんの場面も重ねながら、黙想することにしましょう。

今年3月1日に、長崎教区は司祭助祭叙階式を行い、2名の司祭が長崎教区に与えられました。初めての任地も、今日現在公表されており、一人は浦上の助任司祭、一人は福江の助任司祭として司祭の歩みをスタートさせます。

3月1日の叙階式、教区報の記事をまとめるのに一人の司祭のご両親にミサ前にお話を聞かせてもらいました。助祭に叙階されてから、3年間も待ってこの日を迎えておられたので、さぞかし待たされただろうなぁと思い、ねぎらいの声をかけたのです。

すると、ご両親はわたしの予想していなかった返事をくださいました。きっと「首を長くして待ちました」というような返事だろうと予想していたのに、「本人を信頼して、わたしたちはその日のために備えてきました。きっと神さまは、本人に必要な時間だったから、3年間という期間を置いたのでしょう。むしろ、この3年間が、本人に恵みの重さを実感させていると思います。」そう答えたのです。

本日朗読された福音の個所も、恵みの重さを実感させると言えるかもしれません。イエスが弟子たちの足を洗います。これはユダヤ人が通常外出先から帰って来たときにする足洗いの所作ではありません。イエスは聖体の秘跡を制定される最後の晩餐の途中で弟子たちの足を洗っているのです。おそらく、パンとぶどう酒を分け合う少し前に行われたのでしょう。

エスの動作が、外出先からのけがれを落とすためのものでないとすれば、特別な意味があるはずです。それは、イエスの弟子たちに対する愛の表れです。ほかにも、これから取り扱う秘跡がどれほどの恵みであるかを悟らせるために、将来聖体の秘跡を取り扱うことになる弟子たちを敬う態度であったかもしれません。

エスは「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13・14)と言いました。イエスが、聖体の秘跡を意識した場面で弟子たちの足を洗ったとすれば、後に弟子たちも、足を洗う場面がやって来たとき、取り扱う恵みの重さを思い出したことでしょう。聖体の秘跡は、互いに足を洗い合うほど人に仕えようという思いがなければ取り扱えないのです。

今日わたしたちも、選ばれた人が洗足式に臨みます。これは司祭が、自分の取り扱う聖体の秘跡の恵みの重みを感じるきっかけにすべきですし、信徒もまた、これから祭壇上で執り行われる聖体の秘跡の恵みの重みを考えるきっかけにしてほしいと思います。できれば、毎週の主日のミサ、そこで執り行われている聖体祭儀のたびに、これは、互いに足を洗いあって執り行ってもよいくらいの尊い秘跡、互いに仕え合う秘跡なのだと思い起こしたいものです。

今日、イエスは最後の晩餐の中で聖体の秘跡を制定してくださいました。聖体の秘跡はのちに弟子たちによって記念として行われるようになりますから、弟子たちの司祭叙階の秘跡もこの場面に織り込まれていると考えてよいと思います。

聖体の秘跡、叙階の秘跡が、弟子たちの足を洗うイエスの仕える姿と深く結びついています。わたしたちはミサに集うたびにいつも、イエスがご自分の弟子である司祭たちに仕え、司祭が聖体のイエスと祭壇を囲む信徒に仕え、信徒は司祭が祭壇上で仕える姿を見ているのです。

あらためて、ミサは司祭が祭壇上でイエスに仕える秘跡でなければならないと思いました。信徒は、ミサに参加して、イエスに仕える司祭を見るはずです。決して、司祭が横暴に振る舞ったり、信徒に仕えられるためにミサがあるのではないのです。今日の聖木曜日の典礼で、もう一度仕えるために来られたイエスを祭壇上で再現する、体現する司祭でなければ不合格であると感じました。

わたしたちが、祭壇上で何よりも尊いものを見たのであれば、見たものを生活の中に取り入れるべきです。すなわち、家庭でも互いに仕え合うということです。イエスが弟子たちをこの上なく愛し抜かれた最後の晩餐の場面が、いつも祭壇上で再現され、それを見て一人ひとりが生活の中で隣人愛を実践する。こうして祭壇を囲んだ恵みが家庭に、社会に広がるように、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日、どのように1日を過ごすのが適切だろうか。説教でも考えた通り、互いに仕え合う、奉仕するために1日を用いるのが適切だと思う。聖週間の典礼の儀式書に、司祭にとってヒントになる指示が書いてあった。
▼聖木曜日の典礼を進めるにあたっての指示の中に次の点も含まれている。「聖体はミサの中だけで授けられる。病者には一日中、いつでも授けに行くことができる。」
聖金曜日の指示の中にも似たような記述がある。「きょう、聖体拝領は主の受難の祭儀中にのみ信者に授与されるが、この祭儀に参加できない病者には一日中いつでも授けに行くことができる。」
▼つまり、聖木曜日、聖金曜日に司祭が実りある時間の過ごし方をするためには、病人を見舞い、聖体を授けることがおおいに勧められるということだ。幸い、聖木曜日は通常の病人訪問の予定を組んであるので、わたしにとっては良い機会が与えられた。
▼病人訪問する人の中に一人、手作りのCDを持って行く人がいる。わたしは以前から視覚障害者の支援ボランティア団体「マリア文庫」にミサの録音CDを届けていたが、いつだったかその話を聞いた家族が興味を持ってくれて、「そのCDを主人にも聞かせてあげたいのですが」と相談してきた。
▼もともと制作しているものをもう1枚造るだけのことだから、お安い御用と引き受け、それからもう3年くらいは続いているだろうか。この病人に関しては、少し遅れてではあるがミサの様子を聞いて、毎週礼拝が叶わないその補いをしている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===