受難の主日(マルコ15:1-39)

受難の主日、聖なる一週間が始まりました。イエスがいのちをささげて人間の救いを全うされます。わたしたちは自分では天の国にたどり着けないと、この一週間ではっきり理解し、より頼む心を増しましょう。

本日のマルコによる受難の朗読の中で、わたしは兵士たちが取った行動を深く心に刻みたいと思います。「兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った。だれが何を取るかをくじで決めてから」(15・22)とあります。十字架に架けられたイエスのむごい姿と、イエスには全く関心がなくて、むしろイエスの着ていた衣服に興味があった兵士たちとのきわめて対照的な姿を刻みつけたいのです。

エスの姿は確かにむごたらしいのですが、わたしは、イエスのことを気にも留めず、着ていた衣服を奪い合う兵士たちの無神経な姿が、より一層むごたらしく感じます。死にゆこうとする一人の人間よりも、兵士の目に留まったのは着ていた衣服だったのです。釘で十字架に打ち付けておきながら、はぎ取った衣服の方に興味があったのです。

兵士の姿を見て、何と無神経な人々だろうと、皆さんは心を痛めるでしょうか。わたしたちは、兵士たちの愚かさを笑えるのでしょうか。むしろ、兵士たちの愚かさは、わたしたちの愚かさを鏡で映しているように思えないでしょうか。なぜならわたしたちもまた、イエスが十字架にかけられていることよりも、自分の興味関心を優先することがあるからです。イエスが祭壇上でいけにえの子羊になっていても、ある場合は別のことに興味関心を持っているときがあるからです。

そこで、目の前の出来事から目をそむけないで考えましょう。わたしたちはイエスが十字架にはりつけにされているそばで、それ以外のことに気を取られたり時間を取られたりしていることを正直に認めましょう。だれが何を取るかをくじ引きで決めることさえする、そんな愚かな人間であると認めましょう。弱さを認めてこそ、わたしたちの弱さをご存知であるイエスがわたしたちを救ってくださるのです。

もっと踏み込んで言いましょう。あなたは、イエスの何を取りますか。あなたがイエスの着物を取ると言うのなら、わたしは着物を着ていないイエスを取りましょう。つまり、世の人々が対面を装うための着物を争って取り合うと言うのなら、わたしたちキリスト者は着物をはぎ取られたイエスを取りますと、態度を決めてほしいのです。

もちろん、わたしたちは弱く貧しく、愚かな面を持っています。考え抜いて取るべき態度に思い至っても実際には行動しないことがあります。イエスがこんな弱いわたしたちのためにいのちを投げ出してくださいます。着るものを取り上げられて、みじめな姿をさらしてでも、わたしたちの救いのために自分をささげてくださいます。今は感謝して、イエスの前にひざまずきましょう。せめてイエスのそばにたたずんで、見守ることができるよう、恵みと力を願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今年も何とか、聖週間一週間分の説教を猛烈に書いて準備しようとしている。この「受難の説教」を書き始めたのが火曜日、発行は土曜日(先週は土曜日に発行できなくてごめんなさい)、するとあと残された時間はどれくらいあるのか。
▼さらに今週の予定との兼ね合いもある。25日(水)は子供たちと長崎の国宝大浦天主堂と日本26聖人記念館に巡礼に行く。これだけでも時間はなくなっていくが、27日(金)は視覚障害者の支援をするボランティア団体「マリア文庫」の年1回の行事「国立ハンセン病療養所 恵楓園」の盲人会の方々を見舞に行く。するとどれくらい時間は残されるのだろうか。
▼それでも、浮かばない説教を書くわけにもいかず。そうこうしているうちにこの日まで追い詰められてしまったわけである。追い詰められてから、どれくらいこの状況を押し返すことができるか。勝負というわけだ。
▼幸いに、火曜日の時点で聖金曜日の説教案のヒントは浮かんでいる。聖木曜日の説教は今年3月1日の司祭助祭叙階式直前にインタビューした小ネタを風呂敷いっぱい広げて展開することとし、復活徹夜祭と復活の主日日中の分は水曜日の巡礼の間に黙想することにしよう。
▼復活後の人事異動は大胆なものだった。明らかに人事の刷新が行われた。これまでがよくなかったというわけではなく、中堅を責任ある立場に抜擢して、これからの長崎教区の態勢を整える意図を感じる。もしかしたらこの人事の中で教区長の頭には後継候補のこともあるのかもしれない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===