四旬節第5主日(ヨハネ12:20-33)

四旬節第5主日、受難の主日からの聖週間ももうすぐそこまで来ています。イエスが救いのわざを完成しようとする場面、それと同時に敵対する力もさらに増します。わたしたちも誘惑を退け、イエスが栄光をお受けになるその時を喜び迎えられるよう、学びを得ることにしましょう。

昨年末に大怪我をして現在病院で懸命のリハビリを続けている浜串の元区長さんをお見舞いしました。左腕を切断していると前もって聞いていましたので、どんな顔を作ればよいのか悩みましたが、思い切って最初に腕のことに触れて、気持ちを切り替えようと思い、「おー!腕無くなっちゃったねー」と大げさに言いました。沈んだ気持ちで面会したくなかったからです。

幸いに、元区長さんも悲しい顔は一切見せませんでした。わたしは最近の出来事として、黙想会のこと、新しい昭徳丸が浜串漁港に来て、お披露目をして、わたしが祝別したよと報告しました。とても喜んで話を聞いてくれました。元区長さんからも、いろんな話を聞かせてもらいました。そして、リハビリを懸命にして、浜串に戻りたいなぁという目標も聞かせてくれました。

最後にわたしも、「浜串に戻ってきてね」とお願いしてから手を振って別れると、元区長さんが目を真っ赤にしました。わたしもこみ上げるものがあり、病人と別れるときに涙が溢れそうになったのは生まれて初めてでした。その場を離れる辛さがそうさせたのです。懸命にこらえていた気持ちが、最後に出たのだと思いました。

今週の福音朗読、御父に呼び掛けるイエスの二つの言葉が印象的です。一つは「父よ、わたしをこの時から救ってください」(12・27)そしてもう一つは「父よ、御名の栄光を現してください」(12・28)です。「救ってください」という思いがあったのに、「御名の栄光を現してください」という言葉に変わりました。

これは、イエスの個人的な思いを優先したい気持ちがあったのに、それをあえて後ろに置いて、御父の望みを優先させることを前に置いたということです。

いちばんの理解者であるはずの弟子たちさえ、イエスが十字架にかけられていのちを投げ出す道を思いとどまらせようとしました。イエスがこれからも自分たちの先生であり続けてほしかったからです。

エスに思いとどまらせようとしたのは、弟子たちの個人的な感情を優先していたために望んだことでした。しかしイエスにとって最優先は、御父の望みでした。御父に栄光を帰すことが、そのままイエスご自身栄光を受ける道だったのです。イエスが復活して初めて、弟子たちもイエスの歩まれた道を理解することになります。

わたしは、長崎で面会した元区長さんも、今週の福音朗読でわたしたちが学ぼうとしている道を全身全霊で受け止めようとしているのだと感じました。元区長さんも、「父よ、わたしをこの時から救ってください」と最初は願ったに違いありません。

けれども、3か月過ぎた今は「父よ、御名の栄光を現してください」という心境に変わったように思います。片腕を失いましたが、信仰は失っていませんでした。

むしろ信仰は火で精錬され、生かされていることをますますよく理解し、イエスに委ねて生きようという気持ちが育ち始めていると感じたのです。身体の不自由は大きな十字架ですが、元区長さんはこの十字架で、きっと御父に栄光を帰すに違いないと思いました。

エスは十字架上の死と、その後の復活を目前にして、人はどのようにして御父に栄光を帰すべきかを教えます。人は行き詰ると、だれもが「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言いたくなるのです。

けれども目の前の困難を避けるべきものでななく受けるべき十字架として見るとき、父なる神に栄光を帰す道が開けてくるのです。わたしたちは回り道も、後ずさりする場所さえもなくなって、ようやくイエスに委ねて困難を乗り越える道を選びます。その時とその場所がいつ用意されるかは誰にもわかりません。用意なさるのは神だからです。

わたしの生活で神さまにふと言いたくなる言葉は何でしょうか。「父よ、わたしをこの時から救ってください」でしょうか。たしかに、逃げたくなるような出来事は山ほどあるでしょう。けれども、その現実を十字架として受け止める、背負うと決めたなら、その時からわたしたちは同じ状況でありながら御父に栄光を帰する人に変われるのだと思います。

わたしはありのままの自分の生活で、「父よ、御名の栄光を現してください」と声を上げる信者になれているでしょうか。もしそうでないとしても、イエスはわたしたちにお手本を示し、従うようにと招いておられます。

十字架上で御父に栄光を帰すイエスがわたしたちの生き方の物差しです。わたしの生活をどのように向けていけば、父なる神に栄光を帰すことができるか、今週一週間考えてみましょう。

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ちょっとひとやすみ
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大浦天主堂での信徒発見150周年記念ミサが無事終わった。プチジャン神父のとっさの機転で隠れて信仰を守っていたキリシタンに光が当てられ、信仰の自由も得てキリシタンは自分の信仰を公にできるようになった。
▼今回の記念ミサと教区シノドスの閉会式で、150年前の出来事に今再び光が当てられ、今の時代にもカトリック信徒が社会に対してメッセージを発する必要性が再確認された。記念ミサは参列したすべての人に、自分たちがこの出来事を引き継ぐのだという自覚を持たせたのだと理解している。
▼参列者みなに自覚を持たせたと信じたいが、わたしの隣にいた先輩司祭はお疲れの様子で式中のほとんどの時間うつらうつらしていた。先輩というだけでなく、わたしにとっての恩人司祭でもあるのだが、疲れているのが見ないでも伝わっていたので、そっとしておいた。
▼式典中はたいてい前もって次のような案内がある。「携帯電話の電源をお切りください。」一度だけ、iPhone(アイフォン)の着信音が鳴った。それ以前にも写メを撮って「カシャ」と音を立てていたので「電話の着信が鳴らなければよいが」と思っていたのだが、悪い予感は的中した。
▼前もって注意をしてもルールを守らないのはお偉い方々である。なぜなら自分たちが登場する前に協力のお願いは終わっていて、自分たちが注意を受けることは少ないからだ。今回とある高位聖職者のiPhone(アイフォン)が高らかに音を立て、一瞬その場が凍りついた。
▼まぁそれはそれとして、わたしたちが信徒発見の舞台となった大浦天主堂で150年前の出来事を再認識したことには十分意味があった。皆が「ワタシノムネ アナタノムネト オナジ」という信仰を表明し、明日に向かう力を得たのだから。
▼ところで、「ワタシノムネ アナタノムネト オナジ」「サンタ・マリアのご像はどこ」この感動的な場面がプチジャン神父の自作自演だったと言ったら皆さんはどう反応するだろうか。「何を馬鹿なことを」と憤慨するだろうか。わたしもそれはないと思うのだが、興味のある方は「福音宣教」4月号「信徒発見の真相にかんする新見解」という記事を読んでほしい。この記事をどのように理解したらよいのか、正直戸惑っている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===