四旬節第3主日(ヨハネ2:13-25)

黙想会の週でした。2006年の説教を参考に、黙想会の学びを少し拾ってお話ししたいと思います。イエスは神殿で羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らしと、ずいぶん手荒なやり方で神殿にあるものを一掃しました。荒っぽい方法でイエスは神殿を清めたと考えることもできるでしょう。けれどもイエスの一連の行為は、神殿を清めるということだけではないようです。

当時の神殿は、いけにえをささげて礼拝する場所として用いられていました。幼子イエスを抱きかかえたヨセフとマリアは、鳩を神殿でささげました(ルカ2・24参照)。いけにえをささげることでこの神殿は活用されていたのですから、いけにえの動物がすべて追い払われれば、神殿は神殿としての役割を果たせなくなります。

エスのねらいはそこにあったのかも知れません。神殿からすべての動物を追い払うことで、この神殿はもはや役に立たないものとなった。そのことを人々に知らせようとしたわけです。もはや動物をいけにえにして繰り広げられる神殿礼拝は終わり、代わりにイエスご自身が十字架上で命をささげることで、まことのいけにえとなってくださる。神と人間との間を取り持つのは、牛や羊や鳩ではなくなり、イエスキリストがまことの仲介となられた。そのことを今日の出来事で示したのです。

この点を踏まえてイエスの言葉を考えてみましょう。イエスは鳩を売る者たちに言いました。「このような物はここから運び出せ。」(2・16)これまで大切に取り扱われてきたいけにえの儀式、そこで用いられたいけにえの動物をイエスは「このような物」ときっぱり退けました。

誰もが大切だと考えていた形式であっても、いったんそれを横に置いたとき、それらを頭の中から追い出したとき、もっと大切なもの、唯一の大切なものに気付くことができるようになります。今年の黙想会に当てはめるなら、「幸せの置き場所」であるべき神と人とが出会う場所、神殿では、いけにえの動物に代表される過ぎ去るものを用いた礼拝にしがみついてはいけないということです。

「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」(2・18)イエスの周りにいる人々は、イエスに食ってかかっています。「なぜあなたは、わたしたちの礼拝にけちを付けるのですか」と言っているようなものです。動物のいけにえをささげて礼拝をおこなうやり方に、これまで誰も疑問を持たなかったので、イエスの言葉に敏感に反応したのです。

「このような物はここから運び出せ。」イエスは、わたしが幸せの置き場所と考えていた何かの形を退けるかも知れません。そうなるとわたしはイエスに食ってかかって、「何てことをするんですか。どれだけ苦労して今の幸せの形を手に入れたと思っているんですか」と言うだろうと思います。

このような態度は、ユダヤ人たちがイエスに詰め寄ったのと何も変わりません。「なぜあなたは、わたしたちが幸せと思っていることにけちを付けるのですか」そう言っているようなものです。わたしの態度は正しいのでしょうか。わたしが神に口答えしたり、神に不平を言うことは筋が通っているでしょうか。

あらためて考えると、本当に神が求めているものをわたしはささげてなかったのではないかと反省させられます。もしかしたら、わたしが満足しているものを神に報告していただけではないだろうか。過ぎ去っていく幸せの置き場所にこだわり、それを壊さない程度のささげものをするのではなく、自分を無にしてイエスご自身をささげることに徹する必要があるのではないか。あらためてそう思いました。

わたしたちは今の幸せの置き場所を手に入れるために、人には言えない努力を払ったかも知れません。けれども、それにしがみついてしまっては、わたしたちはイエスを告げ知らせる人であり続けるのは難しい、神をたたえる純粋な信仰者であり続けるのは難しいと思います。それをすべて運び出さないと、過ぎ去る幸せを壊さない程度で神を告げ知らせる人、本物ではない幸せの置き場所を礼拝する人になってしまうのです。

そうならないために、わたしの心からいっさいを運び出す。過ぎ去っていく幸せの置き場所にこだわるのをやめ、いったん横に置いてみる。これがいちばん分かりやすい確認の仕方です。もしもわたしが本物でない幸せの置き場所に執着があるなら、やはりわたしはイエスにもっと徹底的に砕かれる必要があります。

エスの叫びはわたしたちにも向けられています。「このような物はここから運び出せ。」パウロはイエスの叫びについて考えさせる次の言葉を言っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3・16)。わたしという神殿にある幸せの置き場所が神の心にかなわない物でいっぱいであれば、イエスの言葉通り「このような物はここから運び出せ」と言われてしまうことでしょう。

最終的に、わたしたちキリスト者はみな、信じているイエスご自身をささげものとしてささげなければなりません。それはたとえば、「わたしではなく、わたしの中におられるキリストがほめたたえられますように」という祈りを心で思い浮かべて仕事に当たるとか、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14・8)と繰り返し言い聞かせて務めを果たすといったことです。こんな心がけがあれば誰もがみなわたしの中におられるイエスをささげることができるのではないでしょうか。

わたしがしがみついているものを全部心の中から運び出しましょう。大変つらい作業かも知れません。すべて運び去って、もう一度イエスを告げ知らせる者として出直しましょう。頼りにしていたものをすべて取り去ったとき、初めてイエスにのみより頼む望ましい礼拝が始まるのです。ここから、幸せの置き場所も本当の意味で豊かになるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼3月1日に長崎教区の司祭助祭叙階式が執り行われた。2人の司祭叙階と1人の助祭叙階のお恵みをいただいた。2人の司祭のうち、1人は助祭のあと司祭叙階まで3年を要した。「必要な時間」だったから3年を要したのだと思うことにしている。
▼叙階式ミサの直前にご両親に声をかけて、「この3年たいへんな思いをされたでしょう」とねぎらったが、ご両親の答えは意外なものだった。「わたしたちも待ちましたが、本人がいちばん気にしていたでしょう。この時間が、恵みの重さをより感じさせてくれたと思っています。」
▼わたしはこのご両親の返事は立派だと思った。ヤキモキして、気が気ではなかったはずである。だがこの3年を前向きに受け止め、これからにつなげていく姿勢に、わたしは心を打たれた。本人にとっても恵みの重さを理解する時間となっていたらと思う。
▼さて春は桜鯛の季節。産卵のために浅場に大挙して鯛がやってくる。去年から今年の冬、たくさん鯛を釣らせてもらった。一つ心残りなのは、釣った魚をよりおいしくいただくためには、その場ですぐに処理をしなければならない。血抜きとか、神経締めといったことだ。
▼血抜きに関してはわたしもあれこれ試してはみたのだが、間違いなく完了できたとは言えない。包丁をエラのところからブスッと刺すとたしかに血がドバッと出るから、それでおおよそうまくいっているとは思うのだが、よく参考にする動画などで見られるような「急所に当たって、魚がけいれんを起こして、まもなく即死する」という流れに持っていくことができない。
▼エラに包丁を入れることで血を出させても、しばらくは口をパクパクさせているし、即死してはいない。苦しんでいるようで魚がかわいそうである。何か良い道具はないかと思い、漁師さんがよく使う魚鈎を取り寄せようかとも思ったが、急所を仕留めることができなければこれもまた苦しませることになる。
▼そこで、違うアプローチを取る道具を見つけた。フィンランドFiskar製の魚用ハサミである。別にフィンランド製でなくても構わないのだが、調べていくうちにこのハサミにたどり着いた。日本円で1260円だったかな。ネット通販のアマゾンで購入することができた。
▼どこが良いかと言うと、剪定ばさみのようになっているので、エラの部分から差し込んで固い中骨を断ち切ることができそうな点である。ほかには刃の部分に加工が施されていて、細かい鱗をもった魚(カサゴとか、ハタとか、コチとか)の鱗取りができそうである。さて出番はいつやって来るか。今週か、来週か。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===