四旬節第2主日(マルコ9:2-10)

四旬節第2主日に入りました。イエスはただペトロ、ヤコブヨハネだけを連れて高い山に登り、彼らの目の前でそのお姿が変わる様子が描かれています。高い山に登って、3人の弟子は実際には何を見たのか、考えてみたいと思います。

本日午後3時から、浦上教会で長崎教区の司祭助祭叙階式とミサが執り行われます。司祭を絶やしてはいけないという皆さまの日々の祈りと、神学生養成援助のおかげです。わたしの頭でよければいくらでも下げて感謝したいと思います。

また、今週は大人の黙想会が組まれています。山村神父さまが説教師を務めてくださいます。教区シノドスの提言に沿って、何かお話をお願いしますと依頼していますので、教会から遠ざかっている人、教会から遠ざけられている人への働きかけについて、示唆を頂けるのではないかと思っています。黙想会の間、子供たちはお留守番をお願いします。

さて福音朗読のイエスが3人の弟子だけを連れて高い山に登る場面ですが、おそらくその山はタボル山でしょう。ナザレの東にあり、パレスチナではヘルモン山、カルメル山と並んで有名な山です。頂上575メートル地点には後にご変容の教会が建てられました。

それほど高い山でなくても、周囲が平地であれば、多くの町々を見降ろせます。さらに山は、通常険しい場所であり、地上の喧騒から離れて神と向き合う場所と考えられていましたから、いわば弟子たちは地上世界と神がお住みになる天と、両方を見渡す場所にいたのです。

この前提に立って、3人の弟子たちが何を見たのかを考えることにしましょう。彼らは何を見たのでしょうか。イエスの姿が変わり、服は真っ白に輝き、さらにエリヤがモーセと共に現れ、イエスと語り合うのを見ました。ひとことで言えば、息をのむような光景を見た、ということになります。

ところで話はそれで終わるのでしょうか。ペトロは興奮のあまり、仮小屋を三つ建てて、イエスモーセとエリヤを住まわせようと提案しました。すると雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」(9・7)それで弟子たちは急いで辺りを見回しましたが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられたとなっています。

極端な話をすると、3人しか見ていなかった出来事をマルコ福音記者がどうやって描くことができたかという問題にもなります。弟子の頭ペトロがマルコに語って聞かせたであろうということは推測できますが、実際には3人しか見ていないのですから、マルコは言われたままを記録する以外になかったはずです。

もっと意地悪い考えをすれば、何も起こらなかったのかもしれません。さすがにそれはわたしの考えすぎだと思いますが、もしかしたら高井山に登った3人の弟子が見たのは、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声が聞こえ、急いで辺りを見回したが、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。これだけのことだったかもしれません。

実際にわたしたちは、日常生活で深い霧が立ち込める季節を知っています。車を運転していれば、前が見えずに怖くなります。仮にそういう天気に見舞われたとしたら、ただイエスだけが彼ら3人の弟子と一緒におられた、それしか見えなかったという状況は十分考えられます。

わたしは、それでも構わないと思います。何かが起こったでしょう。3人しか見ることのできなかった、息をのむような光景がおそらく展開されたのでしょう。確かなことは、すべての出来事を終えたそこには、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」(9・8)という事実です。わたしは、「ただイエスだけが彼らと一緒におられた」この事実を、最終的に彼らは見たのだと思ったわけです。

わたしが今週伝えたいことはこうです。息をのむような光景のあとに、ただイエスだけが彼らと一緒におられたのは、いわば地上世界と天上世界をつなぐようなこの場所に、イエスだけが彼らと一緒におられたということです。天と地、天上世界と地上世界の唯一の絆は、ただイエス・キリストお一人であるということです。

これは、今週の第一朗読とも関係しています。アブラハムが山で一人息子イサクをいけにえにささげようとする場面です。アブラハムの忠実な態度を見て、神は息子に手をかけるなと命じます。そして目を凝らして見回すと、一匹の雄羊が見えました。アブラハムはそれを捕えて天と地を結ぶいけにえとしてささげたのでした。

今、天と地を結ぶ高い山に、イエスだけがおられます。これは3人の弟子たちだけでなく、福音記者が出来事を伝えることによって、すべての人へのメッセージとなったのです。天と地を結ぶ絆は、イエス・キリストこの方であるというメッセージです。

ここで見落としてはいけないのは、イエス・キリストの歩む道のりはまだ終わっていないということです。これからイエスは十字架上での死を通って復活なさいます。3人の弟子たちもそのことを十分理解できませんでした。それでもここはイエスの歩む道のりについて行きましょう。イエスの歩む一つ一つの道のりが天と地を結ぶと信じましょう。

午後3時からは司祭助祭叙階式です。地上でイエスの代理として天と地を結ぶ司祭がまた2人、この長崎教区に与えられます。彼らがただイエスだけがそばにおられることを信じて、これからの道のりを歩んでいけるよう、共にお祈りいただきたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼小教区の黙想会が始まる。小教区の黙想会には説教師を招いて黙想指導をしてもらう。理由は2つあって、1つはいつも主任司祭の話ばかりで変化がないから、違う説教師に指導をしてもらえるということ、1つはゆるしの秘跡のこと。主任司祭のゆるしの秘跡に抵抗がある人もいるので、こういう時に違う司祭がいてくれるのはありがたい。
▼黙想会の説教師には頭を悩ませる。適材適所を考えるからだ。接待のことがあるのでけっこう後輩司祭を呼ぶことが多いのだが、今年は1年先輩を招いている。たぶん、特別緊張して接待しなくても済むと思っているのだが。
▼黙想会の間、主任司祭はふだん感じていないことをいろいろ感じるようになる。ふだん主任司祭は助任司祭でもいなければ独居者だから、夜に人の動きを気にしていない。だが黙想の指導司祭を呼べばそうはいかない。夜更かしも控え、共同生活をしている修道院のようだ。
▼そうは言っても楽しい部分もある。食事の時に一人で食べるのはやはり味がしないものだが、複数で食事をすれば会話もあるし、食事もおいしく感じるだろう。また自分では手に入らない情報もいろいろ耳にするだろうし、これからの長崎教区のことも話せる。
▼わたしが黙想指導に呼ばれたのはいつが最後だろう?覚えてないが、そう言えば最近呼ばれなくなったなぁ。呼ばれないのはきっとお役に立てないからだ。あるいはわたしが呼ばれると気を遣って疲れると感じて敬遠しているのかもしれない。それらはすべて、自分の不徳の致すところである。そろそろ、黙想会に呼んでもらえないかなぁ。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===