年間第4主日(マルコ1:21-28)

年間第4主日です。イエスが会堂に入って教えます。人々はその権威ある教えに驚きました。イエスが会堂に入る姿から、今週のわたしたちの学びを得ることにしましょう。

個人で所有する祭服の補修が出来上がり、先週途中から着用しています。絹織物特有のごわごわした感じが何とも気持ちいいです。これが何カ月、何年かすると自分の体にぴったり合うようになって、ごわごわしなくなるわけですが、その過程がまた楽しみです。

釣りに行っていて気付きましたが、定置網の仕掛けが浜串漁港の沖合に入りましたね。早々と鯛が50枚近く入ったそうで、今年は幸先よい滑り出しで嬉しいです。黙想会の指導に来てくださる神父さまが話を聞いたら喜ぶでしょう。神父さまはきっとお魚も好きだと思います。黙想会の時はアジの差し入れがあればうれしいなぁと思っています。

定置網と言えば、わたしも鯛を釣ったら名札を付けて釣りの帰りに定置網に放り込んでおこうかなと思いました。お父さんたちに同行して朝から引き上げて新鮮な状態でお刺身をいただけるかもしれません。でも定置網を勝手に生簀(いけす)として使えないので、要相談です。

さてイエスが会堂に入って教える様子には、重要な意味が込められています。会堂で聖書を学び、祈ることは、ユダヤ人男性にとって生活の中心となる出来事でした。

現代のわたしたちにとって会堂はこの聖堂のことですが、わたしたちの中で聖堂で過ごすことを生活の中心と考えている人はまずいないのではないでしょうか。おそらく、収入を得るための労働が生活の中心だと考えている人がほとんどだと思います。

わたしたちはユダヤ人が思い描く背景を理解して読む必要があります。イエスが会堂に入り、教え始めます。それはつまり、彼らにとっての生活の中心にイエスが入り、教え始めたということなのです。イエスはその人にとって中心となる場所で、最も大切な場所で語ったのです。

生活の中心で語られたイエスの言葉は、「権威ある新しい教え」(1・27)と映りました。その目に見えるしるしとして、汚れた霊に命じると、霊はイエスの命令に従います。汚れた霊にとりつかれていた男は、霊を追い出してもらったことで、生活の中心である会堂で集会に参加する喜びを取り戻すことができたのです。

ここで言う「権威」とは何でしょうか。わたしたちはつい権威と言うと権威を振りかざすとか、権威をかさに着るとか、抑圧的なことを想像してしまいます。ここで「権威」とあるのは、言葉と行いが完全に一致しているさまを表します。「囚われている人に解放を与えるために来た」イエスは、汚れた霊に取りつかれている男性を解放して、言葉と行いが完全に一致していることを証明したのです。

さらに会堂で権威ある者として教えるイエスの評判は「たちまちガリラヤ地方の隅々にまで」(1・28)広まりました。「隅々にまで」とあるのは単にガリラヤ地方一帯にというよりも、人々の話題に上らない場所がないほど、それこそ井戸端会議にでも話題に上るほど広まったという意味でしょう。イエスが中心で語ったこと教えたことは、その権威と力強さのゆえに生活の隅々にまで広まるのです。

ここから、何が見えてくるでしょうか。イエスは当時の社会の中心に入って権威ある者として教え、その評判は隅々にまで広まったということです。そしてこの一連の出来事は、当時のユダヤ社会の中だけで起こるのではなく、現代にあっても起こる出来事なのです。

例を挙げましょう。本来なら本人に承諾を得るべきですが、参考になるほうの例なので、きっと許してくれると思います。わたしが浦上教会の助任司祭をしていた時、一人の大学生と出会いました。もう20年くらい前の話で正確には覚えていませんが、司祭館にやって来て、たまたま応対に出たわたしに「洗礼を受けたい」と申し出たのです。

話を聞くと、大学に通うために入った下宿の大家さんが浦上教会の信徒でした。その大家さんから「せっかくだから、朝から浦上教会のミサに一緒に行かないか」と誘われ、誘われるままに通うようになったそうです。そこから気持ちが傾いて、洗礼を受けようと思ったのでした。

大学生はそれから一年近く勉強しまして、無事に洗礼を受けました。今は立派な家族がいて、わたしも毎年年賀状を交換しています。そしてこの説教も、ホームページから読んでくれているはずです。

紹介した大学生にとって、大学での勉強が生活の中心だったはずです。たとえ大家さんが「一緒に教会に行かないか」と誘っても「嫌です」と言うこともできたはずです。わたしが思うに、イエスは大家さんを借りてこの大学生の生活の中心に入って来られ、大学生の心の中に権威をもって語りかけ、その心を動かしたのだと思います。

一人の大学生の心の中に起こしたイエスのわざですが、今日こうして皆さんに紹介し、またこの説教がインターネット上で多くの人に閲覧されて、イエスのみわざは隅々にまで広まるのです。

現代にあって、イエスが生活の中心に入って来られ、権威ある者として教え、イエスの働きが隅々にまで広まるには、わたしたちがちょっと関わる必要があります。もちろんイエスは全能の神でありますが、あえてわたしたちの手を借りることを望んでおられるのです。

たとえばそれは、大家さんが下宿人に自分の信仰を表明したように、生活の中心で「イエス・キリストを信じている」と表明することで可能です。職場でお弁当を開くとき、食前の祈りをするだけでも、生活の中心で自分の信仰を表明することになります。あとは工夫次第です。

一人ひとり生活の中心で、イエスが権威をもって教える場を作ってあげましょう。わたしたちはきっかけさえ用意すればよいのです。後はイエスが存分に働いてくださいます。わたしたちのほんのちょっとのお手伝いで、イエスの評判が社会の隅々にまで広まります。そのちょっとのお手伝いをする勇気を、今日のミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今年も徒歩巡礼が近づいてきた。トレーニングは積んできたが、実際歩くのとトレーニングとは少し違うから、今の準備で大丈夫だろうかという不安はどうしても残る。去年の徒歩巡礼のためには長い距離を歩くこともしてきたが、今年はすべて、浜串教会から中ノ浦教会までの一往復9kmのみのトレーニングでここまで来た。
▼自分の中では、負荷のかかる峠越えを積み上げてきたので、距離が延びても対応できると思ってはいるが、実際に歩くと思ってもいないことが起こり得る。本当の長さを歩いていないことが本番で不安を感じさせ可能性がある。
▼とにかく、今回はこの練習で本番に臨むと決めた。それが間違っていたなら、一緒に参加してくれる相方には迷惑をかけるが、わたしがサポートに回って相方を助けることにしよう。あと10日。もう今さらこれまでの準備をやり直すことはできない。本番でトレーニングが正解だったかどうかを試すだけだ。
▼実はまだ、今回の徒歩巡礼で確実にお世話になる2つの教会に連絡を取っていない。このメルマガの発行の時点ではいくらなんでも連絡を取っているとは思うが、どちらもずっと上の先輩なので、連絡を取るのにどうしても気後れするのである。急がねば。
▼わたしは地図を印刷して通過する国道にマーカーを引いても道に迷う人間である。万全の準備をして、それでも珍道中になることがしばしばある。相方がそうでないことをひたすら念じている。相方も全くの方向音痴だったらどうするか?それが最後の難関だ。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===