年間第3主日(マルコ1:14-20)

年間第3主日を迎えました。福音朗読はガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にする場面です。イエスの宣教活動の始まりです。ガリラヤ湖のほとりで声を響かせるイエスに心躍らせ、イエスに従っていく今週一週間が始まります。

先週わたしはとある食事の席に顔を出しまして、くだらない話と言うか、くだる話と言うか、そういうレベルの話をしました。最初は招待していただいている席なので話を聞く側に回っていたのですが、なんとなくお魚の話とか、釣りの話とかになったので、ここは話してよい場面かなと思い、最近のとっておきの話をしました。

わたしは腸が弱いため、冷たい牛乳を飲むとすぐにお腹をこわしてしまう傾向があります。張り切って釣りに行ったその日、朝ご飯と一緒に牛乳をコップ一杯ひっかけて出発したのです。

そしてその30分後、お腹がゴロゴロしだしました。司祭館に戻る余裕もない緊急事態です。後のことはご想像にお任せしますが、緊急事態の結論の部分まで、会食の席で洗いざらい話をしたのです。

もはや司祭と信徒という関係ではない話を打ち明けたわけですから、話を聞いた人が気を悪くするかもしれないと思いました。ですが意外にも笑い飛ばしてくれたのです。牛乳を飲んで30分後の話を受け止めてくれる人もいるのだなぁと思い、ホッとしました。

皆さんの多くは「そんな話は聞きたくない」と思っているでしょう。ただ、生身の人間の上に中田神父は成り立っておりますので、くだらない部分も含めての中田神父を評価してほしいと思っています。「こんなくだらない部分もあるけれども、浜串小教区のために働けるうちは働いてもらいましょう。」こういう評価をわたしは期待しております。

今週の福音朗読でわたしの心に響いたのは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(1・17)というイエスの言葉です。イエスが声をかけた人々は、最終的にイエスの十字架上の死と、復活の出来事まで目撃することになります。

エスが「わたしについて来なさい」と声をかけたとき、どこまで心の中に考えがあったのでしょうか。病気をいやし、死者を生き返らせ、五千人の人々にパンを食べさせ、会堂で権威ある言葉を話す。それらをイメージして「わたしについて来なさい」と呼びかけたのでしょうか。

それだけではない、と思います。イエスはご自分の生涯のすべてをすでに思い描いた上で、最初の弟子となる四人の漁師に声をかけたと思っています。つまり「あなたたちはすべてを見ることになるが、それでもついて来てくれるか?」そういう呼びかけだったと思うのです。

エスは十字架の上で最期を迎えます。それは逃げ出したくなるようなみじめな場面です。実際に弟子の多くはその場にとどまることができませんでした。最後までそばにいたのは愛する弟子ヨハネだけでした。

ある時は嵐の中を弟子たちが舟を漕ぎ悩み、眠っているイエスを起こして「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ4・38)となかばイエスに呆れています。また別の場面でイエスは怒って人々を見回し、ファリサイ派の人々や群衆のかたくなな心を悲しみながら(同3・5参照)手の萎えた人をいやします。

エスのご生涯は、御父にひたすら心を合わせて祈り、権威ある言葉を語り、奇跡を行うだけではありません。怒ったり、弟子たちにとって肝心な時に眠っていたり、惨めだったりしたのです。それらすべてを見ることになると分かっていた上でイエスは、「わたしについて来なさい」と呼びかけた。わたしはそう考えたいのです。

同様に、イエスが最初に声をかけたのは一介の漁師でした。ですから、イエスの呼びかけは「あなたたちが漁師であることは百も承知だ」この前提に立っていたはずです。イエスはご自分のすべてをさらけ出すことになるのを前提に、そして呼びかける人々にはその素性を百も承知で、「わたしについて来なさい」と呼びかけたわけです。

さらに踏み込んで考えてみましょう。イエスが、「わたしについて来なさい」と呼びかけ、その呼びかけを自分に向けられたものだと感じ、すべてを捨ててついて行く生き方があります。たとえばそれは司祭召命とか修道者の召命ですが、イエスに徹底的について行くことで、いつかは自分に出番が回ってくるかもしれません。

つまり、イエスに従いたいと希望する子供たちや青年男女が現れ、ついにわたしにも、「わたしについて来なさい」と声をかける順番が回ってくることがあり得るわけです。もちろん「わたしについて来なさい」と呼びかけるのは、あくまでもイエスに徹底的に従う姿をわたしが示しながらということです。

もしもわたしに順番が回って来たとき、どんなことを思うでしょうか。「いやいやわたしはイエスさまではないし、奇跡も行わない。だから声をかけるなんてとんでもない」と考えるのでしょうか。わたしは、自分が不完全なものであることは百も承知で、もし大役が回ってきたと感じるなら、臆することなく「わたしについて来なさい」「わたしの弟子になりなさい」と声をかけるべきではないかと考えます。

その人にはくだらない部分があるかもしれません。けれども、そんなつまらない人間の上に、徹底的にイエスに従う日々を積み重ねてきたのであれば、その生き方を求めている人にいつかは問いかけるべきではないでしょうか。その役割はもっと立派な人がすればよいと言っていたら、とうとうチャンスを逸してしまうかもしれないのです。

「わたしについて来なさい。」イエスの言葉はわたしに向けられたものであると同時に、いつかはわたしの口からイエスの弟子になろうと望む人に語られるべき言葉だと思います。その時に備えて、「わたしについて来なさい」このみ言葉に深く分け入りましょう。わたしを通してイエスに出会える弟子が、1人でも2人でも与えられますように。

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ちょっとひとやすみ
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▼このメルマガも750号まで来た。「ナナハン」である。ちょっとアクセルを回すと、すっ飛んで行って、乗っている運転者を振り落とす勢いがあるのが「ナナハン」だが、このメルマガはどうだ。相変わらずのグダグダではないか。
▼騙されてもそれを認めようとしない話について。特殊詐欺が厄介なのは、騙されているのに騙されている自覚がないということだと思う。自分の息子を助けなければならないという一心で、お金を指定口座に振り込み、何とかパックにお金を入れる。
▼直接騙しに来た人に大金を預ける。それもこれも自分の子供を助けるためと思っている。「騙されてますよ〜」いくら大声で言っても心を閉ざして耳を貸さない。本当に可哀そうである。だがよく考えてみよ。自分は騙されないと言っているが、すでに騙されていないか。
▼気心の知れた人との貸し借りとか、信用できる人との貸し借り。貸し借りと言いながら、ほとんどが返ってはこない。それでも手を変え品を変え、信頼できる人が近寄ってくる。信頼できる人だから、騙されている感覚がない。そうやって騙されているのではないか。
▼もはや、騙されない人は誰もいないのかもしれない。そうなると残された道はますます少なくなる。その信頼できる人も切ってしまうか、騙され続けるか、騙されたものはもともと手元になかったものと思って自分自身は別の金策を考えるか。
▼イエスは信じ続けたが、人間に騙され続けたこの地上の生涯だったかもしれない。それでも騙され続けて、騙す人を赦し続けて、救いの計画を全うされた。一度も騙されない人生を目指すのではなく、騙されても騙されても、自分の人生は自分で決める。騙す人に振り回されない人生でありたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===