年間第2主日(ヨハネ1:35-42)

説教に入る前に、昨日1月17日は阪神大震災20年目の日でした。今も震災の影響を受け続けている人がいます。災害を経験した人にもイエスがそばにいてくださり、今ここに踏みとどまって生きる理由と勇気が与えられるように、合わせて祈ることにしましょう。

典礼暦は降誕節を終えて灰の水曜日から始まる四旬節までの約1ヵ月間、短い年間の季節が挟まれています。年間第2主日から年間第6主日です。年間の典礼で着用する祭服は緑です。

祭服と言えば、叙階当時に仕立てたわたしの祭服4着は、すでに22年の時が経過し、傷みが目立つようになってきました。以前白の祭服を補修してもらうために長崎の愛宕にある女子修道院にお願いしましたが、今回緑の祭服を同じように補修してもらうために送りました。

今日わたしは略式の祭服に緑のストラをかけてミサに臨んでいますが、ふだんカズラと呼ばれる盛装でミサをささげている時と比べると、どこか落ち着きません。早く補修から帰って来て、いつものカズラを着用してミサをささげたいものです。

年間第2主日の福音朗読として、最初の弟子たちが選ばれる様子が用いられました。あらためて読み返すと、最初の弟子の姿に弟子のあるべき姿が描かれていると思いました。この点を押さえながら、今週の学びを得ることにしましょう。

洗礼者ヨハネのもとで学んでいた二人の弟子が、「見よ、神の子羊だ」というヨハネの言葉を聞いて、イエスに従いました。この二人は、ヨハネの「声を聞いて」イエスに従ったのです。

出来事を「見て従った」と記録していたら、見ることのできる人は限られてしまいます。けれども「聞いて従った」のであれば、多くの人が弟子に招かれることができます。イエスの弟子になる人の姿にある一つの特徴は、「聞いて従う」ということでした。

次に、イエスに従おうと決めた二人は、「どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった」(1・39)とあります。さきほどの「聞いて従った」と同じ考え方に立てば、「泊まることのできた人は限られている。わたしたちは泊まれないではないか」と考えるかもしれません。

しかし、日本語で「泊まる」と訳された言葉は、「とどまる」ことをも表す言葉で、自分のとどまるべき場所を見いだした人がそこにとどまる様子を表すそうです。「わたしが居るべき場所はここだ」そう感じてそこから離れないという意味であれば、多くの人が実践できます。

最後に、イエスに従った二人のうちの一人アンデレは、自分の兄弟シモンに会ってイエスを紹介しました。「わたしは自分が居るべき場所を見つけた。あなたにもその人を知ってほしい。」そうやって自分が確信したことを自分だけでしまっておかずに、新しい人に知らせたのです。アンデレの言葉を聞いて、シモンもイエスに従う人になりました。

最初の弟子たちの3つの特徴を拾ってみました。聞いてイエスに従ったということ、自分がとどまるべき場所はここだと確信すること、自分の確信を他の人に告げ知らせることです。弟子のあるべき姿が、この3つにうまくまとめられていると思います。わたしたちがこの3つを生活の中に取り入れるなら、わたしたちも確かにイエスの弟子なのです。

ところで、弟子のあるべき姿で取り上げた3つの特徴は、初めて見聞きするでしょうか?そんなことはないと思います。知らないうちに、この3つの特徴はいろんな場面に取り入れられ、中には間違った行動をする人の中にも取り入れられているのです。

間違った行動の例を1つ挙げましょう。ネズミ講と言われる商売に組み入れられた人たちです。彼らは与えられた商品の素晴らしさをたたき込まれ、実際には価値のない商品かもしれないのに、それを友人知人にも次々に契約させます。

より多くの客を連れて来ると、自分にも報酬が回ってくるのですが、それは友人知人、見知らぬ人を勧誘して入ったお金を上層部が自転車操業で回しているだけなのです。最後には商品を契約させた自分も、誘われた友人知人も、不幸な目に遭うことになります。

この仕組みの商売にも、3つの特徴が織り込まれています。魅力的なことを聞かされて言われるままに従い、これは素晴らしい、この商品でバラ色の人生になると思い込んで人生までもつぎ込み、新しい人を連れて来るのです。ただしそこにはイエス・キリストがどこにもいないので、幸せな未来は訪れないのです。

最初の弟子に見られた3つの特徴が、実は社会のいろんな場面に巧妙に取り入れられています。けれどもその多くはわたしたちから利益をむしり取るものだったり、単にやる気を起こさせるものだったりするのです。イエス・キリストがそこにいなければ、わたしたちを本当の幸せに導くことはないということです。

ある意味、21世紀の現代にこそ、イエス・キリストの真の弟子の存在価値が増していると思います。わたしたちが毎日の生活でイエスの招きに聞き従い、自分に幸いをもたらしてくれる場所、自分がとどまるべき場所はイエス・キリストだと確信し、それを人々に告げ知らせる。このように生きる人が、今こそ必要になっているのではないでしょうか。

「幸せになれる、豊かになれる、生き生きと暮らせる。」そう誘われた人の状態が前よりも悪くなる。そんなことが今日常のように起こっています。そんな中で、わたしたちの生き方は価値ある生き方です。輝きを失わない生き方です。イエスの言葉に耳を傾け、イエスこそとどまるべき場所であると確信し、自信を持って告げ知らせましょう。今こそわたしたちの生き方は人々に発見されなければならないと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼五島で幼いころ気に登って食べた「こっぽ」という果物、本当の名前が知りたくなった。上五島の実家は意図的にそうしていたのか、果物の樹が家の周囲にずらりと植えてあった。玄関先には「ビワ(ヒワとも言う)」が植えてあったし、裏にはグミの木とキンカンの木があった。
▼家を囲んでいた崖を登ったすぐには栗の木、梨の木、ヤマモモの木があった。さらに夏ミカン、スモモの木もあったと思う。そして問題の「こっぽ」の木が、自宅の段々畑のいちばん高い畑の脇にあった。
▼もしかしたら、「こっぽ」の木は植樹したものではなく、単にそこに自生していたのかもしれない。それはともかく、簡単に木に登ることができたし、甘酸っぱい実は最高のおやつだった。
▼ただ、この果物の話をしても、話の合う人が見つからない。同じ上五島の人とは理解しあえるが、五島から遠い長崎市内、県内県外の人とは共通の話題にできないのである。「キウィによく似た・・・」と言えば、「それはキウィでしょ。キウィ」と最初から決めつけられてしまう。
▼たしかにキウィと味も形もそっくりなのだが、わたしが幼いころキウィなる輸入果実は存在しなかった(と思う)。キウィを店頭で見かけるようになったとき、「巨大で毛むくじゃらなこっぽだなぁ」とわたしは理解した。しかもほとんどが酸っぱくて食べられない。輸入品には悪いが、「輸入品だからこんなにまずいのだろう」と本気で考えたものだ。
▼最近はネット上で調べることができるわけだが、いろいろ検索してもわたしの疑問を解決できるサイトにはたどり着けない。思いがけない収穫だったのは、「こっぽ」を収穫に行ったという上五島のブロガーの記事にたどり着いたことだった。
▼大きさは、キウィのように巨大でなく、ぶどうの粒を2個くっつけたくらい。毛むくじゃらでなく、表面はすべすべしている。味はキウィフルーツと全く同じ。実を割った中の様子も同じ。「じゃぁキウィでしょ?」と言われそうだが、上五島の人たちはキウィでは決して納得できないのである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===