主の洗礼(マルコ1:7-11)

主の洗礼の祝日を迎えました。イエスが受ける洗礼は、よくよく考えるとイエスの十字架上の死とつながっていると思います。そのことを踏まえて、選ばれた朗読個所から今週の学びを得ることにしましょう。

皆さんの中で長崎新聞を購読している方もおられると思います。1月7日の長崎新聞11面に、教師生活41年の経験を一冊の本にまとめた方の記事が載っていました。この方がだれか、写真ですぐに分かりました。わたしが小学6年の時の担任の先生でした。当時からすると36年の歳月がお顔に刻まれていましたが、先生だとすぐに分かりました。

掲載された記事の内容はわたしにはどうでもよいことですが、先生と当時のわたしのことを話しておきたくて、紹介することにしました。わたしは小学6年生の時に警察に補導されたことがあるのですが、先生のおかげで立ち直ることができました。どんな事件を起こしたかはいろんな関係者に迷惑がかかるので話せませんが、この先生が担任でなかったら、わたしの未来は閉ざされていたかもしれません。

わたしは小学校を卒業して長崎南山中学を受験し、同時に神学校に入学しました。当然、南山中学校にはわたしについての内申書が届いていたはずです。内申書に不利な内容が書かれていれば、いくら試験に合格しても入学を許されるはずがありません。

今思うと、入試に不利にならないように、担任の先生は手を尽くしてくれたのではないかと思うのです。すべてをありのまま内申書に書いたとしても、この子は本当はどんな子で、必ず立ち直る生徒だと、言い添えてくれていたのかもしれません。

しかし当時のわたしは世間知らずで、試験を受け、全体の5番目の成績だったのだから合格するのは当たり前と、先生にあとでお礼を言うこともなかったし、卒業しても一度も先生に連絡をすることもありませんでした。自分が助けられたという実感を持ったのも、今回の新聞記事を何度も読み返して初めて感じたことでした。

今になって先生に助けてもらっていなかったらと思うとぞっとします。わたしは居ても立ってもいられず、先生の住所を調べ、当時のことを振り返りながら生まれて初めて手紙を書きました。先生の返事をまだいただいておりませんが、もしわたしが何も行動を起こさなかったとしても、もっと言うと先生が死ぬまで何も行動を起こさなかったとしても、先生はすべてを背負ってこの世を旅立っていったかもしれません。

わたしはこの先生の潔さと言いますか、懐の深さを今になってようやく理解しました。未来ある子どものために、すべての責任を担って庇ってくれて、もしそのことに本人が気づかなくても、黙って一人でそれを背負って人生を全うする。こんな先生に当時教えていただいていたのだと、あらためて感謝の気持ちがわいてきたのです。

本当に個人的なことで、長々と話してしまいましたが、イエスが洗礼を受けた場面をあらためて読み返して、イエスがどれだけの決意を持って洗礼を受けたのかを、この先生との思い出が教えてくれたのです。

ヨハネが授けていた洗礼は、悔い改めの洗礼でした。イエスに悔い改める理由はどこにもなかったのですが、全人類の悔い改め、全人類の救いを担う決意の表れとして、イエスヨハネから洗礼を受けたのです。

ヨハネは洗礼を望む人をヨルダン川の水に沈めて洗礼を授けていました。「水に沈める」とは「死」を意味します。イエスは自分がいったん死んで、すべての人の罪を背負うことを表そうとしていたのでしょう。イエスが「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来る」(1・10)そのありさまは、イエスのなさろうとする救いの計画が完全に御父と聖霊の心に適っている証拠だったわけです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(1・11)

わたしは初めに、イエスの洗礼と十字架上の死とはつながっていると話しました。イエスヨハネの洗礼によって受けた霊を、十字架の上で御父にお返しになっています。ルカ福音書によると「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23・46)とあって、すべての人の罪を担うイエスの洗礼は、十字架上の死によって完成したのです。

わたしたちの洗礼は、イエスによって始まった「聖霊による洗礼」(マルコ1・8参照)です。そうであれば、わたしたちが受けた洗礼は、罪に死に、イエスに生きる生活の始まりのはずです。そしてそれは、わたしたちが霊を父なる神に返す時に完成される長い旅の始まりなのです。

わたしたちも人生を終えるとき、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と声を上げて人生を終わります。このときわたしたちが受けた洗礼は完成されます。

もしも、罪に死に、イエスに生きたわたしたちのキリスト者としての人生がだれにも評価されずだれにも知られず、もしかして嘲笑の的となったとしても、わたしたちは言い訳を用意したり弁解する必要はありません。わたしたちのキリスト者としての生き方が人生のどの時点でも理解されなかったとしても、それでもあなたはキリスト者としての人生を黙って担って全うする。それだけの価値が十分あります。わたしに今回そのことを気づかせてくれたのは小学校時代の恩師です。

皆さんが洗礼の時に罪に死に、キリストに生きると決めたその人生、何十年生きてもそれでもキリストを知らない人に理解されないかもしれません。ただしそれでも生きる価値があるのです。なぜなら、キリスト者として人生を全うした時、洗礼を受けて新しくされた人生は必ず完成するからです。

エスは洗礼を受ける姿を示しながら、わたしたちを同じ生き方に招いています。罪に死に、御父の御旨に生きるわたしの姿に倣いなさい。わたしが必ずあなたの人生を完成させます。イエスはそう招いています。イエスの洗礼の姿を見つめながら、わたしのキリスト者としての人生を全うする。そのための恵みを、ミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼もう絶対に買わない物。まず三菱のテレビ。わたしに言わせればポンコツだ。理由を2つ挙げておく。まず1つ、予約録画。あれこれ予約録画をして、いろんな番組をつまみ食いするわけだが、ある時予約番組を途中まで観てそのままにしておいたら、次に観ようとした時またも最初から再生し始めた。
▼普通に考えれば、途中から再生するはずである。だが何かの条件でレジュームが効かなくなり、最初から観る羽目になる。ポンコツの最たる例だ。これと似たようなことが、メニューを進めていった時にも起こる。
▼「再生」を選択して、その先の選択肢には「初めから再生」と「途中から再生」の二通りが見えているが、実際に選択できるのは「初めから再生」しかない。これをポンコツと言わずに何をポンコツと言うか。
▼わたしが三下り半を突き付けるもう1つの理由。NHK-BSを観ていた時、気が変わってNHK地上デジタルにチャンネルを切り替えた。その際、副音声が同時に流れることが時々起こる。副音声は英語だ。
▼だれがNHKのニュースを観ようとしている時に二カ国語放送になるのを求めるだろうか。そのたびにボタン操作で副音声をミュートする。二カ国語放送が必要な場面はわたしにはほとんどない。英語放送を英語のまま聞く必要を感じることはある。だが、二カ国語放送は邪魔なだけだ。こんな時にわたしから「このポンコツめ」と罵倒されている。
▼「まず三菱のテレビ」と語り始めたらこんなに長くなってしまった。他にももう買わないという物があるのだが、長くなりすぎるのでこれで終わり。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===