主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)

あらためて主の降誕おめでとうございます。明けてクリスマス日中のミサを祝う今日の福音朗読は、ヨハネ福音書が選ばれています。「イエス・キリスト、恵みと真理に満ちておられる方」とまとめたいと思います。

今年、クリスマス夜半ミサをささげ終わって、「プレゼント」について考えてみました。皆さんの家庭でもクリスマスプレゼントの習慣があるかもしれません。わたしは今年ケーキも買わず、これといった品物も準備しませんでしたが、クリスマスプレゼントは実は神さまが用意してくれるものなのだと心から思える経験をしました。

それは、神さまが遣わして下さった人、わたしからは探そうと思っても出会えない人との出会いです。その人とは、クリスマスでなければ出会うこともなかったかも知れません。わたしはその人と短い間でしたが心を通わせる会話ができました。神さまは素敵なプレゼントを用意してくださるなぁ、素敵な演出だなぁと感謝しました。

もちろん、イエス・キリストの誕生こそが、クリスマスの最上のプレゼントです。朗読された福音にあるように、わたしたちに与えられた救い主は「恵みと真理とに満ちていた」(1・14)のです。

「恵みと真理」実社会ではほとんど聞かれない言葉かも知れません。学校で恵みについてだれも教えてくれませんし、社会が真理と受け止めるものは「数が多ければ何でもできる。数こそ真理だ」こんな風潮です。

恵みを語ってくれる人がいない社会で、また数によって真理が押し付けられる社会にあって、救い主誕生の出来事はゆるぎない「恵みと真理」とに満ちているのです。

社会が恵みと真理から遠ざかっている中で、わたしたちは夜半のミサに続いて、今朝も恵みと真理である救い主に近づこうとしてここに集いました。恵みと真理は目の前にありますが、わたしたちが恵みと真理にあずかるだけでなく、恵みと真理が何かを見失っている人々にイエス・キリストを示してあげる必要があると思います。

たとえば、わたしたちは毎日目が覚めることを当たり前のように思っていますが、日本に同世代の人が百万人いるとして、この人たちが明日必ず目が覚めるという保証はどこにもないのです。朝、目が覚めた。それは神によって生かされているということです。

そのこと一つ取っても、わたしたちは神に感謝する理由があります。そしてわたしたちは感謝する相手を知っています。「あなたは今日を生きていることを恵みと思いませんか。そのことを感謝する相手を知っていますか。」これだけでも十分に、イエス・キリストを告げ知らせるきっかけにできます。イエス・キリストの中に、恵みと真理とが満ちています。わたしたちの言葉は拙くても、恐れずに告げ知らせましょう。わたしたちが恵みと真理はイエス・キリストにあると告げるなら、もっと多くの人がクリスマスを本当の意味で喜び合うことができます。

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ちょっとひとやすみ
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▼あらためて主の降誕おめでとうございます。この日をベッドの上で迎えている一人のお父さんのことを思い、祈りながら「ちょっとひとやすみ」を書いている。12月の初めだったか、浜串で海岸の清掃にあたった日、船で作業をしていた船長さんがロープを巻き上げる機械に巻き込まれ、大けがをした。
▼わたしはその日、老人ホームで予定されていたクリスマス会の出し物の練習のために巡回教会の信徒の家にいたが、話を聞いた範囲では命にかかわるけがをしたようだった。左腕はもはや使えないほど砕け、手術して切断したそうである。手術は全身に渡り、3度も繰り返されたそうだ。
▼クリスマス直前の23日、けがをしたお父さんの奥さんが浜串に戻ってくれて、様子を少し話してくれた。こちらから根掘り葉掘り聞くわけにはいかないので聞かせてもらった範囲の話だが、右腕にスプーンを持たせて、おかゆを食べることができるところまで回復したそうである。本当によかった。
▼この浜串集落には、けがをしたお父さんを慕う人が多い。それだけに心配している人もまた多い。豪快な人というイメージだが、今は何を思うだろうか。わたしは主任司祭として、クリスマスにミサに出席できないことを悔やんでいるだろうと推察する。朝昼晩お酒をおいしくいただく人である一方、浜串でミサがささげられる日は毎日ミサに出席する人でもあった。
▼お生まれになった救い主は、この世界で苦しみあえぐ人の立場に立つ人としておいでになった。決して権力者や、指導者の立場に立ったのではなかった。そういう意味で、おいでになった救い主はけがをしたお父さんのことを思いやってくださる方だし、今も何かの方法で慰めと励ましを与えてくれているに違いない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===