主の降誕(夜半)(ルカ2:1-14)

主の降誕おめでとうございます。今日は全世界の教会と、主の降誕を祝ってミサをささげています。ふだんわたしたちが全世界の教会とのつながりを意識することは少ないかもしれませんが、今日は全国津々浦々、全世界の地の果てまで、救い主の誕生を喜び合うのです。

まず、マリアが救い主イエスを産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた馬小屋に目を注ぎましょう。どんな家族にとってもそうですが、新生児が夫婦に与えられると、その家庭の中心に置かれるものです。場所的な意味合いというよりも、生活が、幼子中心に回っていくようになるわけです。

このだれもが理解できる自然な姿は、わたしたちに救い主を迎える最後の準備を促します。わたしたちも、救い主・幼子イエスを迎える場所を、わたしたちの生活の中心に用意しなければならないのです。

ここでも、場所的な意味合いというよりも、生活と関わっています。今日わたしが喜んで受け入れた救い主は、生活の中心に置かれようとしているでしょうか。日曜日の過ごし方を考えるときに、お迎えした救い主を中心に置いて、過ごし方を考えようとしているでしょうか。それとも最初から、生活の中心に救い主は置かれてなくて、宿屋の外、家畜小屋にしか救い主は置かれないのでしょうか。

そうではなく、喜んで生活の中心に、救い主イエス・キリストを迎え入れましょう。救い主が必要としていることを優先に生活を組み立て、喜んで幼子イエスのために自分の都合を横に置きましょう。その最初の取り組みは、新生児が安らかに留まることができるための心の温かさと心の静けさを取り戻し、わたしたちがしばしば好む社会の騒がしさから一歩身を引くことだと思います。

さらに、今日の福音朗読の最後には「突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った」(2・13)というくだりがあります。天の大群は数十万、数百万だったでしょうか。しかしわたしたちキリスト者は、カトリック教会だけでこの地上に12億人とも言われています。すべてのキリスト者を合わせれば、天使の大軍に勝るとも劣らない数なのではないでしょうか。

そのわたしたちが、全世界地の果てまで「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(2・11)と賛美の声を上げるなら、わたしたちの信仰の証しは世界を包むと思います。病気や老齢、戦争や迫害などで教会から遠く離れている人もいます。これらの人々にも、今宵御降誕の喜びが身近に感じられるよう、ミサの中で願い求めましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼主の降誕おめでとうございます。今年のクリスマス、だれにこの喜びを届けますか。身近な人、愛する人ですか。遠くにいる人、敵にですか。わたしは、「教会から遠ざけられている人」のところに御降誕の喜びを届けたいと思っています。
▼今この時に、教会に行ってクリスマスを祝いたいと心から願っていても、クリスマスミサに参加できない人がいます。わたしが思い付くのは病院などに入院している人です。もちろん、他の形で(施設に入所していて、そこから外出できないなど)ミサに参加できない人もいるでしょう。
▼この、「行きたいけれども行けない人々」に、何とかしてクリスマスの喜びを届けたいと思うのです。きっと、心は教会に何不自由なくいってミサに参加できる人と同じくらい、もしかしたらそれ以上に、御降誕を待ち望んでいる人たちだと思います。
▼そんな人に、どのように御降誕の雰囲気を届けたらよいのだろうか。わたしができる最初のことは、ミサをささげている様子を録音したCDをその人に聞いてもらうこと。まずはそこからだと思う。残念ながら同じ時間に届けることはできないけれども、できるだけ速やかに、届けてあげようと思う。
▼話変わって、この時期でも日焼けを気にする人は女性くらいかもしれない。だが海の上では状況は違ってくる。先日ボートで13時から15時まで2時間海上にいたが、帰ってきていざ事務作業をしようとしたら猛烈な眠気に襲われた。なぜ眠いのか分からなかったが、とても作業できる状態ではなかったので仮眠をとった。
▼仮眠から起き上がって考えた。これは日焼けをしたせいだ。そう思ってみると何となく顔がほてっている、顔面が疲れている。そんな感じだった。これからは一年中日焼け止めをする必要があるかもしれない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===