待降節第4主日(ルカ1:26-38)

待降節第4主日、天使のお告げでマリアにイエスの誕生が予告される場面が福音朗読に選ばれました。マリアは人間の知恵では完全に把握できない出来事を受け入れようとします。人間が知恵を巡らせても把握できないとき、どのようにして出来事を受け止めるのか、マリアは教えてくださいます。

12月19日、エコー検査のために奈良尾診療所に出向きました。障子紙を張り替えるときの糊みたいなものをお腹に塗って、機械を当てて診察するのですが、肝臓を脂肪がぐるぐる巻きにしていて、写真を見せられてもどこが肝臓なのか分かりませんでした。

脂肪肝です。内臓脂肪でいっぱいです。」わたしには脂の脂肪ではなくて、心臓が止まるほうの死亡に聞こえました。もはやわたしの内臓は死亡しているのだ、そんな死亡宣告を聞いた感じがしました。

「中田さん。このままでは肝硬変になって、取り返しがつかなくなります。」先生の話では、脂肪肝は健康体に戻る可能性があるけれども、肝硬変を発症したら決して戻らないという話でした。かわいい女医さんなのに、恐ろしいことを言うなぁと思って聞いていました。

あきらめる前に、一歩引いて考えてみることにしました。考えようによっては、手遅れとは言われなかったのですから、後戻りできる、健康を取り戻す可能性は残っているということです。だったら、つべこべ言わずに内臓脂肪を落とす努力を始めればよいわけです。

そこで、ありきたりなことですが、時間を見つけて歩く。これ以上に確実な方法はありません。もはや言い逃れできなくなったので、カレンダーに印をつけながら、できるだけ歩くようにしたいと思います。

今週はイエスの誕生が予告される場面が福音朗読に選ばれました。天使ガブリエルが、特別なメッセージを携えてマリアのもとに遣わされます。天使ガブリエルは、神から託されたメッセージをそのまま届けますが、マリアは出来事の大きさに戸惑います。自分が身ごもって男の子を産み、その子はいと高き方の子、ダビデの王座につき、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがないと言うのです。

マリアは、天使のお告げが何のことか分かりません。天使は、続けて説明してくれるかもしれないので、「どうして、そのようなことがありえましょうか」(1・34)と問いかけます。天使は、マリアの理解を超えるこの出来事は、聖霊の働き、いと高き方の力に包まれて起こることだと説明しました。

ここで、マリアが人間的な理解力に頼って判断しようとしていたら、判断を誤っていたかもしれません。出来事は人間の理解を超えることだったからです。人間が正しく判断できる事柄は、人間の理解が及ぶ出来事に限られます。それ以上のことを正しく判断するのは、人間には不可能なのです。

そこで、マリアは一歩引いて考えました。自分は主のはしため、主の召し使いではないか。主人が自分をよいように計らってくださるはずではないか。それなら、自分の考えの及ばないことまで考えておられる主に信頼して委ねよう。

考えの及ばないことを示された時、一歩引いて考えるとよい判断にたどり着くことがあります。騙されようとしている人は、自分だけで判断しようとして却って騙されるのです。もし一歩身を引いて、近親者や第三者にひとこと相談すれば、大金を騙し取られる人ももっと少なくなるでしょう。そのように、一歩引いて考えるときに、目の前だけでなく、もう少し広く見渡せるようになったり、もう少し遠くを見通せるようになったりするわけです。

マリアは一歩引いて考えました。一歩引いたとき、主なる神が出来事の中心にいて、導いていることを知りました。出来事がどのように進んでいくのかは分からなくても、主なる神が中心にいて働かれるのだから信頼して受け入れよう。そう決断したのです。一歩引いて、見えなかったことが見えるようになり、恐れに囚われていた心が解放されました。

人間が知恵を巡らせても把握できない場面で、どのようにして出来事を受け止めるのか、マリアは教えてくださいます。それは一歩身を引いて考え、観察することです。思い通りにならないこと、いくら言っても理解してもらえないことなど、わたしたちの生活にはなぜと言いたくなることがいろいろあるでしょう。

それら難しい出来事に、マリアはお手本を示してくださいます。あなたの立っている場所から、一歩引いてみなさい。そうすることで、見えなかったものが見えるはず。マリアは人類に与えられる救い主の母となる場面で、率先してお手本を示してくださったのです。「いや待てよ」とか「ちょっと待てよ」と立ち止まったり一歩引いたりすることは、本当に必要なことを見極めるために必要な時があるのです。マリアがそれを教えてくださいました。

マリアが一歩引いて考えてくださったことで、神が人を救う計画がいよいよ実現しようとしています。神が歴史の中心に置かれて、歴史が動こうとしています。わたしたちも、神の計画の前に一歩身を引くことを学びましょう。人間が一歩引くことで神が出来事の中心になり、出来事は最高の結果をもたらし、わたしたちは喜びに満たされます。

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ちょっとひとやすみ
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▼主任司祭が預かっている会計の中に、「長崎県信用漁業協同組合連合会」というところで金銭を管理しているお金がある。いわゆる「〜銀行」とか「ゆうちょ」ではない、組合が運営しているものだ。通称「信漁連」と言う。
▼浜串にはこの「信漁連」の支所があって、ATMが置かれている。そこまではよいのだが、このATMは入出金が千円単位になっている。それなのに、三つの教会から主任司祭に持ち込まれる関連する金銭は十円単位で持ち込まれてくる。月に一度とか、二か月に一度入金に行きたいのだが、何百何十円をATMが受け付けてくれない。
▼仕方なく、窓口入金ができる奈良尾支所まで車で25分かけて出向くことになる。面倒だなぁと思い続けてもう5年が経過した。その間一度も目の前の支所には行かなかった。歩いて十数歩の場所に行かず、車で25分の場所に行くことにかなり疑問を感じながらも、この連鎖から抜けることができなかった。
▼ある時、預かったお金が千円単位でうまくまとまった。そこで生まれて初めて、目の前の支所のATMを利用しに行くことができた。支所に勤めている人とも頻繁に顔を合わせていたのに、一度もATMを利用しなかったわたしのことを変人と思ったに違いない。
▼いざ目の前のATMを利用してみて、「あー、考えてみたらここでもまぁいいか」と思えるようになった。年度末はどうしても窓口で清算する必要があると思うが、それ以外は数百円の収支を次の月に回せば、それで済むなぁと思ったのである。
▼毎月何万円も収支が違えば問題だが、数百円の入金だけ来月に回すだけなら、説明は容易である。5年も費やしてしまったが、一歩引いてようやく学習した。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===