年間第28主日(マタイ22:1-14)

年間第28主日は「婚宴のたとえ」が朗読に選ばれました。王が家来たちに、「見かけたものはだれでも婚宴に連れて来なさい」と指示を出す様子から学びを得たいと思います。

先週水曜日は天気も良くて、皆既月食を楽しむことができました。ですが同じ場所で見学した人たちの中には違う楽しみ方をした人もいたようです。わたしの後ろに立っていた人が、「おかしいなぁ。月が2つ見える」と言っていました。そして30分くらいすると今度は、「おかしいなぁ。上にある月はだんだん欠けてくるのに、下の月は全然欠けない」と言いだしました。どんな楽しみ方をしていたのでしょうか。

さて王が王子のために催す婚宴は、どれくらい価値のあるものでしょうか。おそらく、王が催す行事の中で、最大のイベントなのではないでしょうか。王子が次の王として即位するまでは、ほかにこれ以上のイベントはないはずです。

王子の婚礼がこれほど重大な価値があると言うのに、婚宴に招いておいた人々は何をしていたのでしょうか。彼らは招待を無視し、ひどい人は招待した人を乱暴したり殺したりして、王を侮辱したのです。

それは、自分たちの暮らしは王が執り行おうとしていることと無関係であるという、王に対する明確な意思表示です。つまり、「わたしは毎日畑を耕したり商売に出たりしなければ生きていけない。王子の婚宴とわたしの日々の生活に、何の関係があるのか」と言っているのです。

本当に、彼らの言い分は正しいのでしょうか。日々の暮らしを平穏に迎えることができるのは、国の平和と安定を守ってくれている王のおかげではないでしょうか。王子の婚宴は、これからも国の平和と安定が約束されるしるしのはずです。そうであれば、招いておいた人々の暮らしが滞りなく進んでいることへの感謝を表すために、何を置いても出席すべきだったと思います。王と喜びを共にしなかったこの人々は、高い代償を払わされることになりました。

王は、招かれていた人々に見切りをつけ、家来たちに新たな指示を出します。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。」(22・9)これは先程の考えに沿って捉えると、「あなたもあなたも、王のおかげで日々平穏な暮らしができているのですよ。どうぞ王子の婚宴に来てください」そういうことだと思います。

むしろ最初に招かれていなかった人々のほうが、自分たちと王とは日々の生活で十分つながりがあると理解したのです。このたとえを、イエスから直接話を聞いている人々がいたわけですが、招かれていた人々とはおそらくユダヤ人のことで、通りで見かけた人とは、異邦人、罪びと扱いされている人々、見捨てられた人々のことでしょう。王として現れている父なる神が、王子として紹介されている御子イエス・キリストの宴を催す時、出来事の重大さやわたしたちの日々の生活とのつながりを理解できるかできないかは、恵みにあずかるかあずからないかの大きな分かれ目になるのです。

さてわたしたちに「婚宴のたとえ」はどのように結びつくのでしょうか。父なる神が御子イエスのために用意する宴はどこでしょうか。それはミサ、この祭壇上で行われる祭儀だと思います。御父が御子イエスを祭壇のささげものとして食事の用意を整え、わたしたちとすべての地上の人々を招いているのです。

そしてわたしたちは、招かれている人であると同時に王の家来でもあると思います。招かれた人として、毎日の生活と父なる神が御子イエスを通して招くミサには深い関わりがあることを認め、宴に参加します。同時に、「見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい」との王の言葉を携えて、見かけた人はだれでも、この聖体祭儀に連れて来るのです。

「あなたの生活も、御子イエスが人類の救いのためにささげものとなっているこの祭儀と関わりがあります」そう伝えて、見かけた人はだれでも、悪人でも連れて来てよいのです。

今日丸尾の体育館で女性部のミニバレー大会が開催されます。金曜日の練習の様子からすると、かなり上位を狙えるような気がします。わたしたちが出かけて行って多くの人とミニバレーで交流を持つのは、スポーツによっても見かけた人はだれでも声をかけて教会同士のきずなを確かめ合うためだと思います。ぜひ、ここで出会った人の中で、もう一度ミサの宴に戻ってくる人を一人でも二人でも見つけていただきたいと思います。

父である神は、祭壇上でささげられる御子イエスの宴の意味と価値を理解するわたしたちに、「見かけた人はだれでも婚宴に連れて来なさい」と呼びかけています。この呼びかけに誠実に答えることが、わたしたちに求められている礼服なのではないかなと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼司祭館には1本の「からしだねの木」がある。手入れが悪くてやせこけている苗木だが、わたしのひどい扱いにもけなげに背を伸ばそうとしている。どのように手に入れた苗木なのか、その辺りから話してみたい。
▼この苗木のもとは、イスラエル巡礼をしてきたシスターのお土産である。検疫の問題とかクリアしたのかどうか、詳しいことは聞かなかったが、お告げのマリアのとあるシスターが巡礼に行って、持ち帰った種を芽が出るまで育て、そのうちの一鉢を譲ってもらった。
▼最初から大切に育てなかったものだから、苗木が水が欲しいと要求しているのも、鉢が手狭になったので植え替えて欲しいと頼んでいることも、全く耳を貸さなかった。そのせいか、背が伸びて添え木も与えられず、根元がグニャッと曲がって伸びてしまった。
▼苗木はいくつもあって、大切に育ててもらったものはすくすく伸び、今では人間の身長よりも高くなっている。「お前がもらった苗木はどうなった?」と聞かれたが、恥ずかしくてありのままを言えなかった。
▼最近、ようやく大きな鉢に植え替えた。水も、てきとうだが与えるようにした。しかし若い苗木の時にグニャッと曲がったのはどうにもならず、痛々しい姿で生き続けている。そのからしだねの木に、最近大きな変化が現れた。
▼気温の変化なのか、わたしが土の栄養を気にしないからか、9月のはじめにかなりの葉を落としてしまい、今にも枯れそうになっていた。ところが10月に入ってよくよく見ると、古い葉を落とす代わりに、新しい葉が芽生えているではないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===