年間第29主日(マタイ22:15-21)

年間第29主日、年間の主日も残り少なくなってきました。それはつまり、教会の暦も終わりに近付いているということです。今週与えられた福音朗読は、「皇帝への税金」を取り上げて、ファリサイ派の人々がイエスと対決しています。今週の学びとして、「返すべきものを返すべきお方に返す」としたいと思います。

先週は女性部のミニバレー大会でした。わたしたち浜串チームはBブロックで熱戦を繰り広げ、優勝を勝ち取ってきました。中田神父はこれといって活躍していませんが、足でボールを拾ってチームのピンチを救った場面がありました。来週壮年のソフトボール大会なので、ここでも何とかお役に立ちたいと思っています。

ようやく台風が明けて、久しぶりにボートで釣りに行きました。手のひらくらいの鯛が2枚釣れて、あと30cmくらいのキジハタが1匹釣れました。もっと沖に出ればまた違うのかもしれませんが、急病人などで呼び出されることも考え、船を港につなぐまで30分以内で戻れる場所を自分のいるべき場所と考えています。

さて、与えられた福音はファリサイ派の人々がイエスを罠にかけようとたくらむ悪意に満ちています。「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」(22・17)質問する人々は、ただイエスを罠に陥れたいのです。イエスがどちらの返事をしても、罠にかけることができたのです。

エスはこの問題に直接答えることをせず、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(22・21)と答えました。心ではローマによる支配を苦々しく思っていながら、日常生活では皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を平気で使用しているのだから、皇帝の要求にも応じたらよいではないか。だが神のものは神に返しなさいと釘を刺したのでした。

ここでは特に、「神のものは神に返しなさい」ここに込められた思いを探りたいと思います。皇帝がその支配する領土で税を要求する権利があるのであれば、なおさら、神がわたしたちに要求する権利は当然のことです。神も、御自分の肖像と銘が刻まれたものから要求できるのです。

この世にあって、神の肖像と銘が刻まれたものとは何でしょうか。それはわたしたち人間そのものです。神は御自分に似せて人をお造りになったと、旧約聖書の創世記にあります(創1・26参照)。わたしたちは神に似せて造られたもの、そして神のものなのです。ですから機会を見ては、自分を神にお返しする必要があります。

一人の修道女を紹介したいと思います。15年くらい前から関わりのあるシスターで、わたしが出会った時はまだ大変活発に奉仕活動をしていました。しかし体調を崩され、脳梗塞も患い、病気療養を続けたのですが回復せず、今は寝たきりで延命治療を3年も受けています。話しかけても反応はなく、ただ見守ることしかできない状態です。

わたしは、このシスターが長いこと関わってきた視覚障害者のためのボランティアの代表を引き継ぎました。引き継いでみて、このシスターが今何を思っているかが分かるような気がしたのです。

ボランティア団体の代表を引き継いだ時点では、まだシスターとも意思疎通ができていました。わたしがボランティア団体のことを心配するのは半分くらいで済んだのです。ところが全く意思疎通ができなくなったときに、わたしの心配は半分ではなく、すべてとなりました。

おそらくこのシスターも、何もないところから立ち上げたボランティア団体と会員の行く末を、今も心配しているのだと思います。直接顔を出して様子を見ることができない分、一日24時間すべて、会員のことを心配する時間になっているはずです。

それは言いかえると、病室で延命治療を受けながら、「神のものは神に返しなさい」とのイエスの言葉に懸命に答えようとしているのだと思います。わが子のように大切に育ててきたボランティア団体を、身動き一つできない状態のまま思い続け、まさに命を削って見守ってくれている。これは、神から与えられたいのちを、今置かれている形で神にお返ししている姿なのだと思います。

ときどき、もうこんなに長く苦しい思いをしなくても、と思うことがあります。ですが、延命治療の中で日々いのちを削って会員のことを思う姿は、神の似姿として造られた人間の価値が、一日で咲いてはしぼむ花とは違うということを、苦しみの中で教えてくれているように思います。自分の時間は自分のものだけれども、何かの奉仕を通して人にお返しする、人への奉仕を通して神にお返しする。そういう生き方が会員皆に浸透するよう願いながら、今もいのちを削り続けているのだと思います。

わたしたちはどのようにして、「神のものを神に返す」のでしょうか。今日こうして礼拝に集まっている皆さんは、少なくとも1時間を、神さまにお返しできているのだと思います。その中でも、何もしないで1時間ここにいる人よりは、聖歌を歌い、祈りを唱え、みことばに真剣に耳を傾けるなら、よりよい状態で1時間をお返しできていると思います。ほかにも、お返しができない人に親切を施したり、赦し難い人を赦したりすることは、自分を神にお返しする立派な行いになります。

わたしたちは、「神のものは神に返しなさい」とのイエスの呼びかけに答える神の民です。「自分のものを自分の好きなようにしてはいけないか」という主張が横行する社会の中で、全く違う生き方を世に示していく民です。カトリック信者の生き方を通して、「わたしたちはどのようにしたらよいでしょうか」と、神に心を向ける人が現れるよう、主に願いましょう。より多くの人が、「神のものを神に返す生き方」を見いだして歩めるよう、ミサの中で願い求めましょう

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ちょっとひとやすみ
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▼物事を「おおよそ」理解しているという人と、「完全に」理解している人には違いがあるものだ。祭壇奉仕の話だが、浜串教会では曜日ごとにミサの準備をしてくれる担当者が割り振られている。些細なことかもしれないが、ある曜日だけはほかの曜日と準備が少し違っている。
▼水とぶどう酒を入れる容器(ウルセオルス)を1つ挙げる。浜串教会のウルセオルスはわざと大きさが互い違いにしてあり、ふだん大きいほうに水を、小さいほうにぶどう酒を入れて準備している。しかしある担当者だけは、これを逆に使用して準備している。
▼小さな違いなのでほかの曜日の人ももしかしたら気付いていないかもしれないが、使っているわたしは「この日だけは逆だなぁ」と思いながらミサを進めている。ただ、わたしは性格が素直でないので、それを本人に伝えることはしない。ちょっとの変化に気付くか気付かないか、わたしはここを出るまで黙って観察するだけで、結果的に気付かなくても、それでも最後まで言わない。
▼似たようなことをもう1つ。侍者の奉仕をしてくれている小学生たちがいる。朝眠いのに、また最近は寒くなっているのに、実によく頑張ってくれている。聖体拝領の時に小学生の1人は信徒の手の下に受け皿を添える手伝いをするが、聖体拝領が終わると司祭が受け皿に聖体のかすかなかけらが残っていないか確認してすすぎを済ませてからその受け皿を侍者が祭壇から引いて片づけることになっている。
▼聖体拝領後、侍者が手に持っていた聖体の受け皿を祭壇に置くわけだが、ほとんどの侍者は受け皿を無造作に祭壇に置いている。それは、「どのように置くのが最適か」を理解していないからである。もしかしたらわたしも、そこまで細かい説明をしなかったかもしれない。
▼だが1人だけ、わたしが手を伸ばしてスムーズに取れる状態に置いてくれる侍者がいる。この侍者は明らかに、「だれのために聖体の受け皿を祭壇に返しているのか」を理解している子である。他の子供たちは祭壇に受け皿を戻すことは理解しているが、「司祭の立場に立って」受け皿を置くことまでは考えが及んでいないわけだ。
▼教えなかった可能性もあるので、中田神父に責任があると言われるかもしれない。ただわたしは、これはセンスの問題だと思っている。取っ手の向きまで司祭が取りやすいように向け直して聖体受け皿を置く。仮に練習で説明したとしても、ほかの子供たちは「そう言われたからそうしている」で終わりだろう。だがこの子は、おそらく説明していない細やかな部分まで「こうしてあげたら親切だろうなぁ」と感じてそうしているわけだ。
▼「おおよそ」理解しているというのと、「完全に」理解しているということの間には違いがあると思っている。それは超えられないものではなく、観察力や、感性や、何のためにその動作をしているのかを考える思考力などが磨かれて超えていく。分かりやすく言えば「こうしてあげたらもっと喜ばれるのではないか」との気付きが超えさせるのだ。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===