年間第27主日(マタイ21:33-43)

司祭団のソフトボール大会を終えて帰ってきました。当日長崎佐世保では朝からひどい雨が降って、試合も30分遅らせて開始しました。司祭の中には独断で試合は不可能と判断して会場まで来なかった方々もいました。そのため地区対抗の公式戦ではなく、順位を付けない交流試合という形での開催となりました。

五島チームは何人か佐世保平戸チームから選手を借りて、長崎チームを相手に二試合することができました。試合は一試合目が十何対一の大差で負けました。五島チームの虎の子の一点は、わたしのランニングホームランです。二試合目は大接戦をものにして逆転サヨナラで長崎チームに勝ち、去年のドラマの再現となりました。

個人的な成績も悪くはなかったと思います。一試合目はわたしのホームランがなければ完封試合でしたし、二試合目もサヨナラホームインしたのはわたしですから、気分はいいです。ただ、二試合目センターオーバーを打って欲張ってホームまで突っ込んだら、キャッチャーが余裕で待っていてせっかくの長打をダメにしたことと、あとで観ようと思って撮影したビデオカメラに、一試合目は映ってなくて二試合目だけ映っていたことがショックでした。

さらに追い打ちをかけたのは、映像が残っていた二試合目の、わたしのバッティングフォームが無茶苦茶だったことです。本人は絶好球を打ったつもりでしたが、顔の高さのボールを大根切りしていました。よくまぁあれで外野深くまで飛ばせたと、呆れて物も言えませんでした。

ビデオの映像を見て思ったことがあります。チームのメンバーに手伝ってもらって何度も何度もバッティング練習したのは何だったのだろう。わたしが打撃練習している時に、仲間には「そこはボールよ。手を出さないで」とか、「バットが下から出ているよ」と口酸っぱく言ってもらったのです。それが全く活かされてない。本当にショックでした。

チームの中でわたしが機能するように、どれだけ後輩たちは気を遣ってくれていたことでしょう。たまたま遠くまで飛ばす力が優れているわたしに、試合で最もボールを飛ばせる高さをくどいほどに覚えさせてくれたのに、それを無駄にしてしまったのです。申し訳なく思いました。

さて、今週の「ぶどう園と農夫のたとえ」ですが、農夫に焦点を当てると、彼らはぶどう園を任せようとする主人の思いを踏みにじっています。主人は、ぶどう園というある種の「チーム」の中で、農夫たちが最も機能するようにとあらゆる手はずを整えて、これを農夫に貸し与えたのです。見込み通りであれば農夫は最高に整えられたぶどう園でその能力を発揮して、主人が戻って来たときに収穫を受け取れるはずでした。

今、「ぶどう園」を、「ある種のチーム」と言いました。ぶどう園にかかわる人がたくさんいるからです。ぶどう園の所有者がいます。ぶどう園で働く農夫たちがいます。収穫を受け取りに行く僕たちがいます。そしてぶどう園の跡取り息子がいます。

いろんな人が関わって、互いに協力してぶどう園からたくさんの収穫を得て、みんなが喜ぶことができます。だからこのぶどう園はある種のチームだと思うのです。チームワークが良ければ結果も期待できますが、チームワークが取れなければどの役割の人にとってもマイナスの結果になるのです。

農夫たちは、ぶどう園の収穫を喜ぶためにはどの役割の人もチームワークを大切にしなければならなかったのに、そのことを忘れました。すべての準備を整えてぶどう園を貸し与えた主人、そこで丹精込めてぶどうを育て、収穫する農夫、収穫を受け取る僕、皆が一致協力して初めて、皆で喜びを分け合えます。それなのに、収穫を独り占めにしようとして、却ってすべてをダメにしてしまいました。

独りよがりな行動が全体をダメにすることは、今年のソフトボール大会で痛いほど分かりました。先頭バッターで長打を打ったのに、ホームでタッチアウトになった。これはチームのことを全く考えていない証拠です。三塁で止まっていれば、後の3人のうちだれかが自分を返してくれたかもしれません。仲間を信頼せずに暴走して、得点チャンスをダメにしたのです。成功を独占しようとして、チームに迷惑をかけました。

ぶどう園の主人は、協力を拒む農夫に最後の協力を求めようと自分の息子をぶどう園に送りました。これは御父が人間世界に送ってくださった御子イエス・キリストのことです。

ぶどう園の主人が一人息子を送ってくださった。父である神が、御子イエス・キリストを送ってくださった。これはどういう意味があるのでしょうか。わたしは、収穫の喜びを決して無駄に終わらせたくないとの強い思いを感じます。父なる神が、御子イエス・キリストを送ってでも神の救いの恵みに人類をあずからせようという強い思いを感じます。

今まさに、独りよがりな行動でぶどう園の主人の思いを無駄にしようとしている農夫、神の救いの恵みを無駄にしようとしている人類を何とか喜びに招こうというのが、一人息子を送る姿ではないでしょうか。

「自分さえよければ」そんなちっぽけな考えを捨てて、ぶどう園の収穫の喜びが最大になるように一致協力する。同じように神の救いの計画が最大の実りをもたらすよう、自分にできる協力を惜しまない。独りよがりな行動を捨てるとき、わたしたちは神の救いの計画に最大の貢献をする働き手になるのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼司祭団ソフトボールの五島対長崎第二試合で、わたしは長打を打ったがホームでタッチアウトだった。確かにそうだが、ビデオを続けて観ていると後続は同じ回に2人内野フライでアウト、次の回の攻撃の先頭打者が四球を選び、その次の打者が外野フライで終わっている。
▼状況が変われば結果も変わっていたかもしれないが、わたしが三塁で自重していた場合、果たして帰ってくることができたかどうか。映像を見る限りでは疑問が残る。わたしは中継が乱れてわずかな望みがあると読んでいたが、そうはならなかった。いずれにしてもあの走塁は無茶だったのだろう。
▼この試合でもう一つわたしの走塁に賛否が分かれるケースがあった。最終回、わたしのセカンドゴロで二塁コースアウト、これでツーアウトとなり絶体絶命となる。後続のバッターのセカンドオーバーヒットでわたしは思い切って三塁まで走った。アウトになれば試合終了である。しかし三塁まで走れば、その次の打者が打つことで何かが起こるかもしれない。そう思って三塁を目指した。
▼三塁コーチャーは「先輩ナイスラン!」と喜んでくれたが、ビデオには審判の「中田さんあぶねぇ」の声が残っていた。危なかったのだろう。しかし、最後の打者がレフトフライを打って万事休すと思ったその時、一度もミスをしていなかったレフトの選手が落球し、すでにわたしがホームを駆け抜けていたことでサヨナラ勝ちを呼び込んだのである。
▼あの場面、わたしが二塁で自重していたら結果はどうなっていただろうか。ツーアウトだから二塁から全力でホームを目指したとして、レフトが落球した後にバックホームされれば、わたしは幻のランニングホームランの二の舞になっていたかもしれない。するとわたしは二度も笑い物になる可能性があったわけだ。あそこは三塁を狙って正解だったと、胸を張って言いたいと思う。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===