年間第14主日(マタイ11:25-30)

年間第14主日、これから待降節の前まで年間の主日が続いていきます。どうかするとあっという間に待降節降誕節になってしまう危険もあります。各自で具体的な過ごし方を持ってこれからの年間の季節を過ごすきっかけをつかむことにしましょう。今週のまとめとして、「あなたの重荷を軽くしてくださるイエスに近づく」としたいと思います。

皆さまのご好意により、7月3日聖トマの霊名の祝いを本日用意していただきました。心から感謝申し上げます。だんだん機敏さが無くなり、思いついたことをパッと実行できなくなっておりまして、皆さんもどかしい思いをしておられることでしょう。これからはわたしに本当にできることは何か、よく考えてそこに力を集中したいと思います。

さきほど、教会の暦に沿った具体的な過ごし方を考えましょうと言いました。教会暦は待降節から始まります。一年を一回の登山になぞらえてみました。わたしは登山のことを実際には知りませんが、「準備」「訓練」「実際の登山で味わう苦しみ」「登頂した喜び」「無事に下山」という流れになると思います。

すると待降節は、登山の前に必要な計画作りや情報収集といった準備に当たります。信仰生活の中では、わたしたちが信ずべきこと、守るべきことの再点検などにあてはめられます。降誕節は、訓練です。イエスも宣教活動を開始するまで、ヨセフとマリアのもとでお暮しになりました。わたしたちも信ずべきこと、守るべきことにどんな質問をされても何かしら答えられるように訓練をします。

準備と訓練を経て登山がはじまりますが、当然苦しみも味わうことになります。山が高ければ高いほど、酸素は少ないし、足場は悪くなるからです。わたしたちの信仰も、誘惑を受けたり、同じ信仰の人が全く教会に足が向かわないのを見て無力感を覚えたりするでしょう。その苦しさを乗り越えなければ、「信仰していて良かったなぁ」という気持ちにはなれないと思います。

登山は苦しみの連続ですが、登頂し、そこから眺める景色はすべてを忘れさせるでしょう。イエスの復活、昇天、聖霊降臨の恵みは、これまでの試練や苦難を忘れさせる素晴らしいひと時です。この喜びがあって、わたしたちは信仰を続けていけるわけです。

そして登山は無事に下山して完成します。登頂しても、帰り着くことができなければ、その登山は失敗です。登頂して味わった達成感と喜びを携えて、慎重に、かつ大胆に行動する必要があります。わたしたちの信仰の歩みで、復活節を終えてからの年間の季節は、この下山にあたる部分です。復活によって神の栄光を表したイエスを心に携え、復活の喜びを告げ知らせるために、人々が住む社会に派遣されていきます。この一連の繰り返しで、わたしたちは典礼暦の一年を過ごしているのです。

福音に入りたいと思います。イエスは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(11・28)と言い、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11・30)と励ましてくださいます。わたしがこのことを考えるきっかけをいただいた経験をお話しして、皆さんと分け合いたいと思います。

長崎教区には約100人の教区司祭がいます。教区司祭が亡くなると、できる限りすべての用事を横に置いて葬儀に参列します。わたしは22年前に司祭になりましたが、それから5年くらいは亡くなった司祭を納めた棺を聖職者墓地まで担いで行き、土葬していました。感じとしては、浜串教会から後浜串のバス停まで担いでいくような感じでした。

おもに、亡くなった司祭と関わりのある司祭が棺を担ぐのですが、担ぎ手の司祭の身長がばらばらだったりしますと、ある司祭にはより棺の重さがかかったり、ある司祭はあまりに背が低くて、担いでいると言うよりもぶら下がっているようなこともありました。

わたしも何度か棺を担ぎましたが、たいてい亡くなった先輩司祭たちは自分たちより体が小さいのに、なぜか棺には重さを感じました。わたしはその重さは体の重さだけではない、なにか年数から来る存在の重さのようなものを感じたものです。

時には、「少しぐらい手を抜いても、ばれないだろう」という気持ちが起こることもありました。ところがそういう時に限って、「しっかり担げ。気を抜くな」というお叱りの声を受けたのです。必ずしもわたしに言ったものではなかったかもしれませんが、だれかが気を抜くと、それが全員に重さとして伝わり、厳しさを教えるために注意する司祭もいたわけです。

棺に寄り添い、真剣に棺を担ぐ中で、わたしはこう考えました。イエスが「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(11・29)と言ったのは、真剣に事に当ってみてようやく分かるものなのだと言うことです。棺を担ぐのは決してやさしいことではありませんが、気を抜かずに真剣に担ぐなら、負いやすいものになり、重たいはずのものが軽く感じられたのです。

司祭になって6年目くらいには、長崎市から土葬の許可は下りなくなりました。それからは聖職者墓地にご遺体の棺を担ぐことは無くなりましたから、今の40代後半までの司祭が、この経験をした最後の世代だったことになります。現役の司祭が亡くなった司祭を担ぐという体験が、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」という呼びかけになっていたのだと思います。

肩に食い込む重みは、今でも忘れません。その重みを感じながら、これからも司祭としての務めを果たしていくつもりです。それは希望のない重荷ではなく、むしろ喜びをかき立てる重荷です。信仰の歩みは、時として肩に食い込む重荷ですが、その荷が負いやすいもの、軽いものとなるのは、真剣にその重荷を担う時です。それは、真剣にイエスに近づくことでもあります。わたしたちがより真剣にイエスに近づこうとするとき、イエスがわたしたちの重荷を軽くしてくださいます。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼そう言えば、今日のNHKのど自慢は、新上五島町が会場だった。どこかで歌う場面があり、「長崎の鐘」をうたったところ、「とても上手ですね。NHKのど自慢に出たら?」とおだてられたが、素性がばれるし、仮に歌わなければならなくなったときにピエロ役に抜擢されるかもしれないし、考えれば考えるほど応募する気になれなかった。
▼金曜日には、土曜日の予選会のことを盛んに町内の有線放送で流して、見学に来てくださいとお知らせしていた。きっと楽しいだろうなぁ。見学くらいだったら、行ってもいいかもなぁ。案外、司祭は応募していなくても、シスターは応募していたりして(笑)。
▼わたしの知っている人で、参加すればまず間違いなく合格するであろう女性を2人知っている。声量があり、歌を楽しんでいるのがよくわかる人だ。この2人のうちどちらかが予選に参加して、本線に出てきたら、上五島にもこんなに素敵な歌声の女性がいるんだときっと視聴者も感心してくれると思う。
▼さて、NHKの宣伝はこれくらいにして、わたしは安倍総理大臣に一言申し上げたい。総理大臣は、中国には「力による現状変更は許されない」と盛んに言っていますが、ご自分は「数の力」による現状変更を許すのですか?
▼武力も、数の力も強引なことをしようとすればそう変わりないでしょう。だとしたら、力による現状変更は許されないはずです。お願いですから、現状変更しないでください。国会周辺や、総理官邸周辺で頻繁に繰り返されているデモを、どのように聞いているのですか。蚊の鳴き声としか思っていませんか。
▼「あの時総理が解釈変更に舵を切ってくれて良かった」と、振り返った時に思うのでしょうか。わたしは「あの時舵を切っていなかったならどんなに良かっただろうか」と考えるであろうグループの一人であります。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===