年間第15主日(マタイ13:1-23)

今週の福音朗読では「種を蒔く人」のたとえが選ばれました。今週のまとめとして、「辛抱強く御言葉に耳を傾ける」としたいと思います。

子どもたちの夏休みも近付いてきました。夏休み入ってすぐに、ドッヂボール大会が待っています。今日午後1時半から、参加教会が集まって対戦チームの抽選会があります。中田神父も抽選に加わるので、できるだけ強くないチームが当たるように、小学生とその保護者の皆さんはお祈りしておいてください。

練習に参加した子供、試合に参加した子供にはごほうびとして「大村市民プール」を予定していますが、たとえば3試合して3戦全敗だったら、「愛らんどプール」ということもあるかもしれません。中田神父が「なるほどこれなら連れて行ってもいいなぁ」と思う結果を出してほしいと思います。そのためにはまずは練習です。

福音の学びに移りましょう。イエスはたとえを用いて語りました。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。」(13・3)何をたとえているのでしょうか。2つの方向から考えてみました。1つは、良い土地に落ちた種だけに価値を置いて話をしたという考えです。もう1つは、道端に落ちた種、石だらけで土の少ないところに落ちた種、茨の間に落ちた種、良い土地に落ちた種、どれも同じ価値でとらえているという考えです。

どちらがこのたとえを理解するのに適しているかは、当時の農夫たちの種蒔きの仕方を知ると見えてくると思います。イエスが人々と共に暮らしたパレスチナではまず種を蒔き、その後で耕していました。刈り入れ後の農閑期に村人が行き来すればそこには道ができました。しかしその「道」も、種を蒔けば耕されて農地に変わります。

そうした習慣があったので、農夫は「道」にも種を蒔きました。また農閑期にいばらが生えても、いずれは耕すので、気にせず種を蒔いていました。すると、このたとえに登場する農夫は、どの種にも芽を出し、実をつけることを平等に期待していることが分かります。無駄になる種もあるかもしれないと分かってはいますが、「この種は無駄になる種」「この種は実をつける種」と区別しているわけではないようです。

こうした背景を踏まえると、農夫は常に自分の蒔いた種が芽を出し、実をつけてほしいと期待していると理解したほうがよいと思います。つまり、どの種も同じ価値があるものとして見ているということです。

ではイエスがたとえに取り上げた「種を蒔く人」とは誰のことで、「種」は何を表すのでしょうか。いろんな可能性を含めて話しているのでしょうか。わたしは、イエスの頭の中には、ただ一人の「種を蒔く人」が思い描かれていると考えています。それは、父なる神です。そして父なる神が蒔く種とは、「イエス・キリスト」のことではないでしょうか。

「種を蒔く人」を父なる神、「蒔かれる種」をイエス・キリストとしてもう一度たとえの全体を読み返してみましょう。父なる神は、御子イエス・キリストをこの地上に「種」として蒔いてくださいました。御子がお生まれになった場所は家畜小屋でした。ほとんど誰にも知られずに誕生の瞬間を終えたのです。

エスはあちこちに出かけて神の国を告げ知らせました。心に深く根付かない人々にも、御言葉を土の中に埋めてしまって実を結ばない人々にも神の国を語りました。もちろん、御言葉を聞いて、思い巡らし、信じて受け入れる人々もいました。

エスはあらゆる場所で、分け隔てなく御言葉を宣べ伝えたのです。すべての人、無駄になるかもしれない人も含めて、あらゆる人に豊かな実りを期待して御自分を御父から蒔かれた種として与え続けたのです。イエスを理解する人のためにも、理解せず、いのちを狙う人のためにも、御自身を種として、すべて与えつくしたのです。

朗読の終わりにたとえ話の説明が加えられています。これは、後の教会が付加と考えられています。今回のイエスのたとえ話を、マタイ福音書を読み聞きながら生きた共同体は、「種を蒔く人」は唯一のお方であり、蒔かれた種もイエス・キリストただ一人だと理解していたのです。

わたしたちはどのように受け取ればよいでしょうか。父なる神は、すべての人に御子イエス・キリストを種蒔きしてくださいました。どんな環境にある人にも、実を結んでくれると期待して、分け隔てなく種蒔きは行われました。あとは、父なる神が蒔いた種である御言葉を、わたしたちがどのように扱うかにかかっています。

蒔かれた相手によって御言葉という種の価値が重かったり軽かったりするのではありません。すべての人に、同じ価値ある御言葉が与えられています。何か、工夫をして、受けた御言葉を実らせたいものです。

そこでわたしは、皆さんに「辛抱強く御言葉に耳を傾ける」ことを勧めたいと思います。どれくらい辛抱強く耳を傾けるかというと、心に留まった御言葉を、たとえば30回繰り返して読み込むくらい辛抱強く向きあってみましょう。すると、見えなかったもの、気づいていなかったことにたどりつけるのではないかと思います。

置かれた身分によっては、60回繰り返して読む辛抱強さが必要です。もっと言うと、司祭は御言葉に決定的に触れるために、100回繰り返して読む辛抱強さが必要かもしれません。ここまで辛抱強く御言葉と向き合えば、父なる神は必ず豊かに実をつけさせてくださるでしょう。

「耳のある者は聞きなさい。」(13・9)わたしは、御言葉に対してどのような準備ができているでしょうか。この御言葉を30回繰り返すことでも、実を結ぶための辛抱強さが備わっているか、試されると思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼久しぶりに冷や汗をかいた。紙の金銭出納帳にプリントアウトするのが滞っていたのでしばらくぶりにプリントしてみると、出力した結果と銀行通帳の数字が合わない。紙の出納帳に記録する前に表計算ソフトで管理しているが、表計算ソフトの数字と銀行通帳とはピッタリ合っている。
▼これはどういうことだ。以前は紙に出力しても数字に狂いはなかったのに、ある時点から数字が合わない。台風襲来で司祭館から一歩も出ることができないし、思い切って原因を探ることにした。表計算ソフトの書式の、入出金を記録している書式と、紙に出力する書式を見比べているうちに原因が分かった。
▼単純な計算間違いだった。司祭が管理している金銭を表計算ソフトに記録するとき、月ごとに「今月の収入計」「今月の支出計」「今年度の収入累計」「今年度の収入累計」「今月の収支残高」「今年度の累計収支残高」これら6項目が分かるような仕組みにしているのだが、なぜか去年の12月に限って、「今月の収支残高」「今年度の累計収支残高」が間違っていた。
▼さきの6項目はわたしが電卓で計算しているわけではない。単純なsum関数を表計算ソフトに埋め込んでいて、その結果が見た目には数字となって表れるようになっている。毎月の集計結果は今に始まったことではなく、10年くらい前から利用している関数式だ。
▼ところがこの関数式が、去年の11月までは正常に埋め込まれているのに、12月に限って間違った関数式が埋め込まれていた。去年の12月の時点で4万7千4百4円のずれが生じ、それ以降はずっとこのずれを引きずったまま、計算を続けていたのである。約10カ月分のプリントアウトを済ませて最後の数字を眺めたときに、初めてどこかの時点で間違っていることに気付いた。印刷はやり直しだし、インクも紙も無駄である。
▼なぜ、関数の埋め込みを間違ったのかまったく分からない。わたしは算数も数学も「2」だったので分かろうというのが土台無理なのだが、人間のミスを人間が発見すること、しかも自分のミスを自分で発見することがこんなに難しいとは思いもしなかった。早速正しい結果をプリントし、銀行通帳にも47404円入金した。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===