聖ペトロ聖パウロ使徒(マタイ16:13-19)

聖ペトロ聖パウロ使徒の祭日を迎えました。日曜日と、この日が重なるのは数年に1度しかなくて、わたしが司祭になってからの22年の間には今回で4回目です。

ちなみに次に回ってくるのは2025年なので、確実にこの場には立っていないと思います。両使徒の祭日にあたって、2008年の説教を参考にしながら「使徒の生き方を鏡として生きる」とまとめたいと思います。

黙想会に参加してきました。説教師は、フランシスコ会の桑田神父さまでした。近づきやすい雰囲気を持った神父さまで、共同の食事の時に近くの席に座って談笑しました。ふだんの黙想会でしたら、説教師の神父さまと雑談するなんてとんでもないことです。

小教区に戻ったので、これからゆっくり説教に耳を傾けるつもりですが、今パッと思い出せる内容を紹介しますと、黙想会を機に、わたしたちがどれほど神さまに愛されているかを考えなければならないのだと思い出させてくださいました。

考えるヒントとして、桑田神父さまはこの人生を終えて神さまの前に立たされると、2つの巻物を見ることになるというたとえを話してくれました。巻物の1つは、「自分が果たせた善い行いを綴った巻物」です。そこには、自分が全く記憶していない善行まで綴られています。

もう1つの巻物は、「犯した過ちを綴った巻物」です。善行ですら、記憶にないことが綴られていたのだから、過ちはそれはもう思い出せない過ちが数限りなく綴られているに違いないと推測できます。そして恐る恐る、犯した過ちが綴られた巻物を開いてみると、イエスの十字架上の贖いによって、巻物には何も書かれていなかったというのです。

これは、どんなに感謝しても感謝しきれないことです。わたしたちはこんなに愛されているのだと、黙想会のようなゆっくりとした時間の中で考えることは必要なことだと思いました。

ではここから両使徒について学びを得ることにしましょう。まず福音朗読から聖ペトロについて考えてみましょう。ペトロに期待されている1つの特徴は、「イエスの呼びかけに答える」「イエスの問いかけに答える」ということだと思います。今週の福音朗読では、イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(16・15)という問いかけに対して、シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」(16・16)と答えています。

ほかにも、イエスが「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(14・27)と話しかけた時に、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(14・28)と答えています。ペトロは、イエスに答えるという使命を受けた使徒でした。

ペトロはイエスの問いかけ、呼びかけに答えたわけですが、それはそのまま、イエスに最後までついて行ったということでもあります。ただ返事をしたということではなくて、ペトロは困難を感じた時も、イエスに信頼を寄せて、最後までついて行ったのです。そのことが、最後にはペトロの殉教につながっていきます。言い伝えによると、ペトロはローマで殉教したのですが、イエスと同じはりつけの形は自分にはもったいないことだということで、逆さにはりつけになったとされています。

そこでペトロの姿から1つの模範を学びましょう。それはイエスの呼びかけ、問いかけに、わたしたちも答えるということです。何も優秀な答えをイエスが求めているわけではありません。呼びかけに、「はい」とか「引き受けてみます」と答えることが大切です。ペトロは常に、答えは不十分かも知れないけれども、問われれば自分の言葉で返事をしたのです。1人ひとり、「わたしはイエスに問われたら答えてみます」という気持ちをペトロに倣って育てていきたいと思います。

次に、聖パウロについて、第2朗読を通して考えてみることにしましょう。第2朗読は「テモテへの手紙」ですが、選ばれている箇所からは殉教の時が近づいていることが分かります。「世を去る時が近づきました」(4・6)とあるからです。死を目前にしての手紙なのですが、落ち着いた、静かな心でその時を待っていることが伝わってきます。

人生の最期の時を、落ち着いた静かな心でいられるというのは、並大抵のことではありません。そこまでたどり着くためには、それなりの自信が必要でしょう。パウロはこれまでの歩みに自信があるので、静かな心でいられたのだと思います。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走り通し、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです」(4・7−8)。

パウロは「義の栄冠を受ける」と言っていますが、「義の栄冠」とは何なのでしょうか。殉教の後にあるものですから、それは「永遠の生命」ということになります。パウロは、なすべきことは果たしたし、「永遠の生命」が得られるので、心静かに過ごせるのです。

わたしたちは「永遠の生命が得られるので、心静かにいられる」ときっぱり言えるでしょうか。本当に、永遠の生命への希望だけで不安なく過ごせるでしょうか。わたしたちが迷いなくこの生き方を貫くには、日頃から永遠の生命が何にも代えがたい価値があると理解している、常々そう思っているのでなければパウロの心境にたどりつけないでしょう。

実生活は、さまざまなものに価値を見て、「永遠の生命」だけを見つめて生きているとは言えないと状態です。ですから、残念ながら、パウロのような心静かな状態で人生の最期を迎えるのは難しいのではないでしょうか。最後まで心残りに思うことがいろいろ浮かび、あーしておけばよかった、こうしておくべきだったと悔やむのではないでしょうか。

パウロの生き方は、「永遠の生命」をしっかり見据えた生き方でした。パウロから、わたしたちも同じ生き方を写し取りましょう。「わたしが持っているのは、棄てることができない教えです」ときっぱり答え、永遠の生命を見据えて生きていく。そのような信仰を目指して歩んでいきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会で、「説教師は皆さんを変えることはできません。皆さんを変えることができるのは皆さん自身です。」こう言い切る説教師に初めて会ったかもしれない。確かにその通りで、わたしたちが変わっていくためには、外からの力ではなく、中から、自分自身が納得して自分を変えなければ、変わらないのだと思う。
▼もっとも印象に残ったのは、次の問いかけである。「聖フランシスコはたえず次の問いをしていました。『主よ、あなたはどなたですか。主よ、わたしは何者でしょうか。』皆さんも同じ問いを自分に投げかけてください。」わたしの中に、生涯問い続けるテーマが植えられたと思った。「主よ、あなたはどなたですか。主よ、わたしは何者でしょうか。」
▼なんだったら、このテーマ1つで黙想会を組み立ててもよいくらいの大きな問いだと思った。この問いには、きっと一人ひとり別々の答えが見つかると思う。その答えは、どれが正解というものではなくて、その人にとっての正解が見つかればそれでよいものなのだと思う。そして一人ひとりが見つけた答えに、自分の生き方が逸れないようにすればよい。
▼わたしたちが見つけた答えは、きっと譲れないものだと思う。「主よ、あなたは○○です。主よ、わたしはあなたの○○です。」その譲れないものを生き方の中で表現していくために、黙想会というまとまった思索の時間はとても意義がある。わたしたちがたどり着いた答えをなかなか生活の中で表現できなくなってきたら、それは一旦歩みを止めて、黙想する時である。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===