キリストの聖体(ヨハネ6:51-58)

黙想会に行ってまいります。皆さんの平日のミサができなくなるのでご不便をおかけしますが、前にも話した通り、迫害の時代に信徒だけで260年間信仰を守り通した、長崎のキリシタンの日々を思いながら、信心業を通して信仰を維持し続けていただきたいと思います。

わたしが黙想会に行くと、ホッとする生き物がいるはずです。船隠しの沖と言いましょうか、神ノ浦の沖と言いましょうか、そこで悠然と泳いでいる真鯛は、一週間ほどは確実に生き延びることができるからです。ただし一週間だけですけど。

梅雨に入ってから、数えるのも面倒になるくらいの真鯛を釣りました。何人かは、お裾分けにあずかっているはずです。釣れたのはほとんど真鯛でした。どうしてほかの魚は釣れないのかなと思っていたのですが、先週はその原因の一端に思い当たりました。

それは、仕掛けを巻き上げる速さに原因があるのではと思っています。そこで、海底から10mは、これでもかというくらいの遅い巻き上げをしてみました。すると、今まで食いついてこなかった魚があれこれ釣れました。あの釣りは言わばパン食い競争の進化したもので、ぶら下がっているパンは一定の速さで移動しています。足の遅い魚はいつまでたってもパンに食い付けませんが、真鯛は足が速いので、毎回食いついてくるのだと思いました。他の説明があれば、あとで聞かせてください。

魚のおすそ分けにあずかった人は、食卓の一部を、わたしの釣った魚で分け合ってくれた人々です。一つの食べ物を、多くの人で分け合うということは、多くの人が、同じ一つの食べ物で、同じ喜びを味わうということになります。

食べ方はいろいろだったかもしれません。わたしは塩コショウをして、蒸し器で蒸して、ポン酢で食べました。皆が皆そうだったわけではないでしょうが、一つの食べ物が、多くの人に渡っていくと、喜びも大きくなる気がします。

今日はキリストの聖体の祭日です。イエスは、ご自分を食べ物として用意して、多くの人がその食卓にあずかれるようにしてくださいました。イエスがご自分を食べ物としてお与えになるとき、たとえば日曜日には、何億人もの人が一つの食べ物を食べ、喜びを分け合うのです。

わたしたちは、食べ物によって人間の体がある一定の方向に形作られることを知っています。肉を食べると言っても、鶏肉を中心に食べる人、豚肉を食べる人、牛肉を食べる人、それぞれが形作られていく方向は違ってくると思います。または、野菜を中心に食べる人、お米を多く食べる人、それぞれの体がある一定の方向に仕向けられていくわけです。

ではミサに参加して、聖体をいただく人々は、どのような姿に形作られていくのでしょうか。ご聖体は、小麦粉で作られたパンの小さなかけらです。ですから普通の食べ物のように、拝領したことで筋肉を作るとか繊維質を摂取するとかそういうことではありません。けれども、キリストの御体と御血は、すべての人にとって同じ一つの食べ物ですから、きっとすべての人がある一定の方向に形作られていくのではないでしょうか。それは、どのような姿でしょうか。

2つの考え方を示したいと思います。1つは、永遠の命を得、復活へと招かれていくということです。ご聖体をいただくことで、わたしたちの中には永遠の命が常に保たれ、この状態が保たれているので復活へと招かれることになります。わたしたちは時間と場所の制約の中でしか生きられませんが、その有限の体に、永遠の命が保たれるのです。それは、「キリストの体がそこにある」ということなのだと思います。

もう少し踏み込んで言うと、聖体を拝領するとは、キリストの体の一部を持つと言えるかもしれません。さまざまな人がいます。職業も、置かれている環境も、健康状態もさまざまです。こうした人が同じ一つの聖体をいただき、キリストの体の一部を持っているのです。理解できる人、どうしても理解できない人、受け入れることができる人、どうしても受け入れられない人、さまざまな人がいますが、同じキリストの聖体によって養われたキリストの体の一部なのです。

もう1つの考え方は、キリストの聖体を受けたなら、「キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行い、キリストのように愛する」人に向かっていくのではないでしょうか。

しかしながらこの考え方は、先の考え方よりも理解するのが難しいかもしれません。「わたしはキリストのように考えているけれども、あの人はそうではない」このように考えてしまうからです。わたしと正反対に行動する人、考える人が、どうしてキリストのように考え、キリストのように行動している人だと言えるでしょうか。

正反対の考えや行動の人ですが、わたしたちは皆、イエスによってこの食卓に招かれました。そして間違いなく、この祭壇から、一つのパンをいただいています。それは、イエスが一人ひとりに、ご自分の御体と御血を分けているのと同じです。

エスが食べ物となって、違う考えの人同士が一つの同じ喜びを味わえるようにしてくださったのです。イエスが可能にしてくださったことを、わたしのほうから「わたしとあの人とが同じ喜びを分け合うなど、そんなことができるはずがない」とどうして言えるでしょうか。

そこで今週は、お互い一つのことを思い巡らすことにしましょう。わたしたちは一つの祭壇から、同じ一つのパンを分け合っていますが、意見を出し合うと食い違うことがあります。対立することさえあります。どのようにしたら、同じ一つのパンを分け合った者同士、協力できるでしょうか。そのことを考える週にしてください。

キリストの聖体を受けて、およそ一週間聖体を拝領できないかも知れません。聖体を受けて永遠の命を与えられ、復活に招かれました。さらにキリストの思いを分け合う者同士、一致して神の国のために働くことができますように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼黙想会はいつも喜びを神に感謝する期間となっている。わたしたちは司祭として、しばしば多くの教会で黙想会の準備をしている。黙想会に参加する人が、何かを得て帰るのをこの目で見ている。
▼その中でも、回心してもう一度教会とのかかわり方を見直す人がいることは本当に喜ばしい。これまで、何年も教会から遠ざかり、無関係に生きてきたという人が、何かのきっかけを得て、もっと神の恵みに近い場所で生活することを選ぶようになる。それを見ることができるのは司祭冥利に尽きると言ってよい。
▼ただ、その光景を見るのは司祭が小教区などの黙想会にいるときの話だ。これから司祭同士で、黙想会をすることになる。そこには、教会から何年も遠ざかり、これからはもっと恵みに近づいて歩んでいきますという姿は見られるのだろうか。
▼ちょっと、表現が適切ではないかもしれない。けれども、司祭同士で黙想会の中で自分を省みるとき、そこには回心があり、放蕩息子の例えが当てはまってもよさそうな気がする。実際に、そういう恵みが与えられる人がいるかもしれない。
▼黙想会は、さまざまな人にとって、恵みの時だ。ミサの中でキリストの聖体をいただくのが恵みの頂点だと思うが、ある意味、黙想会は違った形でキリストの聖体をいただく期間かもしれない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===