復活節第5主日(ヨハネ14:1-12)

浜串教会は本日、岬にある希望の聖母像前からロザリオを唱えながら聖母行列をおこない、聖母月の総仕上げとして聖母をたたえました。わたしたちが今日復活節第5主日典礼を聖母行列から始めたことは意義深いと思います。今週の福音の学びとして、「聖母からイエスへ、イエスから御父へ」というテーマでまとめたいと思います。

ロザリオの祈りは、皆さんよくご存じのように、「喜びの神秘」「苦しみの神秘」「栄えの神秘」「光の神秘」という各神秘に5つの黙想があり、合計20の黙想をするようになっています。黙想の進め方は、黙想への招きを唱え、続いて主の祈りを1回、アヴェ・マリアの祈りを10回、結びに栄唱を唱えます。

今日は特に、ロザリオの祈りを唱えながら行列を行いました。行列は当てもなく移動しているのではありません。希望の聖母像から、浜串教会聖堂に向かう行列でした。言い換えれば、イエス・キリストの生涯を黙想しながら、聖母マリアからイエスへと向かう歩みだったわけです。

聖母マリアをたたえるロザリオの祈りは、ロザリオの祈りの各神秘に示された招きを考えれば考えるほど、わたしたちの心がイエスに向かうように導かれていきます。なぜ、聖母マリアをたたえる祈りなのに、イエスに導かれていく内容になっているのでしょうか。それは、マリアの生涯がイエスに導かれていく生涯だったからです。

マリアはその生涯を通して、イエスに起こるすべての出来事を心にとめて生きられました。多くの場合、マリアにとって理解するのが難しい出来事の連続でした。それでも、すべてのことを心にとめて、思い巡らしたのです。わたしたちはロザリオの祈りを通して、この聖母マリアに心を合わせるように努めます。するとその行いはそのまま、マリアからイエスに心を合わせることに向かうのです。

ですからわたしたちはロザリオの祈りを唱えるとき、マリアからイエスに心が向かっていきます。マリアの心に、イエスがおられると言ってもよいでしょう。それでわたしたちがマリアに心を合わせるなら、それがそのまま、イエスに心を合わせることになるのです。

聖母行列が、わたしたちに今日の復活節第5主日のイエスのみことばをよりよく黙想する助けを与えてくれます。ロザリオを唱えながらの行列で、マリアに心を合わせるとき、マリアの中にイエスがおられ、わたしたちもマリアを通してイエスに心が向かっていきました。

エスは「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」(14・11)と言われました。わたしたちがイエスに心を合わせようと努めるとき、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」とのみことばにたどり着けるのだと思います。その近道が、マリアを通してイエスへという道です。

実際に、マリアの生涯がイエスのみことばの意味を説明しています。マリアはイエスによって、父なる神の人類を救う計画が一つ一つ実現していくのを見ました。マリアはすべてを思い巡らす中で、イエスが「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」その見えるしるしだと悟ったのです。

三年間イエスと共にいる弟子たちには、そこまでの理解はなかったようです。トマスはこう言います。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」(ヨハネ14・5)フィリポはこう言います。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」(14・8)。

エスの答えはこうです。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。」(14・9)3年間イエスと寝食を共にするというのは、相当に長い期間であり、イエスのことを分かってもらえる十分な時間だったのでしょう。

しかし、弟子たちが必ずしもイエスの期待に応えられているとは限りません。三年間寝食を共にしていても、何を見て、何を考えていたか、またイエスが話されたことを一つも聞きもらさずに聞いたかと問われると、だれ一人完全に応えることのできた弟子はいないでしょう。

「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」弟子たちはイエスの期待するところまでたどり着いていませんが、この弟子たちにイエスはどのように接していかれたのでしょうか。投げやりになったのでしょうか。

むしろイエスは、弟子たちが最後の最後にイエスの期待にたどりつけるように「業」を準備してくださいました。それはイエスの死と復活です。イエスが、人間の救いのためにご自分のいのちさえ投げ出してくださったことで、イエスの内に御父がおられ、イエスは御父の内におられることを弟子たちは信じることができました。

弟子たちの理解は、すべてを心に納めて、思いめぐらしたマリアのように深くはありませんでした。けれども弟子たちも、十字架の場面でさえそばを離れなかったマリアを通してイエスにたどりつき、イエスを通して御父を見ることができました。

弟子たちの道のりは、そのままわたしたちの道のりです。わたしたちも、マリアのようにすべてを心に納めて、思い巡らす境地にはたどり着いていませんし、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」としか言えない信仰者です。

それでも御父はわたしたちに、マリアを通してイエスにたどりつく道を与えてくださいました。またイエスを通して、御父に至る道を与えてくださいました。今日わたしたちは、聖母行列とミサ聖祭を通してその両方を体験しています。

マリアを通してイエスに至る道、イエスを通して御父に至る道を知るわたしたちは、この世にしか歩く価値を見いだせない人々に、救いに至る道があることを知らせましょう。わたしの歩く道を見てくださいと言えるような生き方ができるように、ミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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集団的自衛権。限られた情報から考えるのだが、顔を真っ赤にして、どうしてもこの権利を行使したいとおっしゃる総理大臣が理解できない。憲法が「行使できない」と言っているのだから、行使できないまま構わないではないか。
▼そこまでして海外で「やられたらやり返す」姿勢をアピールしたいのか。悪人に手向かってはいけない。一緒になって反撃すれば、きっと誰かが死ぬことになる。人が死ぬかも知れない場面に飛んで行くのは「自衛」ではなくて「戦争」だ。
集団的自衛権を行使できるようにしても、行使できると決めた人たちが行使するわけではない。自分が出て行ってでも集団的自衛権を行使したいというのなら、勝手にしてくれたらいい。忘れていないか。実際に出かけて行って命を危険にさらすのは自衛隊だ。
▼記者会見を見た。「これこれの状況下で、自衛隊は何も手を出せないのです。それでいいのでしょうか。」本当に手を出せないのか?武器を持たなければ、自衛隊員は救出に行かないだろうか。武器を持たなくても、厳しい訓練を受けた自衛隊員は何とか救出しようとするのではないか。
▼「戦争はしません。」これも時代が変われば放棄するのだろうか。集団的自衛権は、国内の話ではなく海外に出かけて行って何かをするということだ。戦争はしないと決めた国だ。最後まで戦争まがいのこともしないで欲しい。
▼最後の最後、どうしても集団的自衛権の行使を必要とするなら、正々堂々と憲法を変えればよいではないか。国民を説得すればよいではないか。国民を説得できないのであれば、解釈の変更で集団的自衛権の行使を正当づけても、どのみち国民はついてこない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===