復活節第3主日(ルカ24:13-35)

復活節第3主日は、復活したイエスがエマオで現れる場面です。二人の目が開け、イエスだと分かった様子から、「復活したイエスは今も、わたしたちの目を開き、わたしたちを宣教へ駆り立てておられる」とまとめたいと思います。

復活祭を無事に終え、浜串のお父さんの手ほどきで生まれて初めてルアーフィッシングに行きました。正直な話「釣れるの?」と疑ってかかっていたのです。一緒に連れて行ってもらった日、大きなアコウを釣って帰りました。

それでも、「先生の手ほどきがあったから釣れたのだ」と、なかなかルアー釣りそのものを信用できなかったのです。そこであらためて、連れて行ってもらったおおよその場所に一人で行ってみました。辛抱して続けていたら最初の魚が掛かりました。そして、ついに50cmを超える鯛が掛かりまして、この釣り方は可能性があると実感しました。何回か続けてみようと思います。

さて、人間だれしも、何かで迷ったり自信をなくしたりすると、自分を取り戻す場所を訪ねるものです。わたしは釣りに行って、やることなすこと結果につながらないと、とっておきの場所に行ってみます。するとそこで何かを思い出して、自信を取り戻したりするわけです。

皆さんも、自分を取り戻すその人なりの場所があると思います。うまくいっていたことがうまくいかなくなったときに、もう一度自分を見つめ直す場所です。自分の今を作り上げてくれた場所、そういう場所は、困難に直面するたびに力になってくれるのだと思います。

今週の福音で登場する2人の弟子たちも、自信を失ってエルサレムからエマオに向かっている途中でした。イエスが12人の弟子たちと宣教している姿に強く惹かれ、この2人もイエスの弟子であることを自負していたはずです。しかし、イエスが十字架にはりつけにされ、みじめと思える最期を遂げたとき、かれらはもはやエルサレムにとどまる理由がなくなり、都を後にしたのでした。

そんな2人にイエスが現れ、彼らと共に歩き始めます。共に歩いておられるのに、彼らにはそれがイエスだとは分かりませんでした。彼らの目は遮られていました。イエスはかまわず彼らと共に歩き、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(24・27)のです。

2人の弟子たちは、知らず知らずのうちにイエスによって導かれていたのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか。」(24・32)彼らの心を燃やし、心の目を開いてくださった目の前の人が復活したイエスだと分かったのは、「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(24・30)その時でした。

この2人の弟子たちとイエスとの一連のやり取り、整理すると何かに気づくかもしれません。そのためにも、まず一連のやり取りを整理してみましょう。中心にあるのは2つのことです。エマオに向かう弟子たちに復活したイエスが現れ、まず聖書を説明し始めます。それからパンを取り、賛美の祈りを唱え、割いて弟子たちに与えました。すると、復活したイエスだと気づいたわけです。

この一連の流れに、皆さん何か気づかないでしょうか。イエスが聖書を説明し、賛美の祈りを唱えてパンを割いて与えてもらう。実はこの体験、わたしたちはすでに味わっているのではないでしょうか。

そうです。わたしたちが今集まっているミサ聖祭は、イエスが聖書を説明してくださり、パンを割いてわたしたちに与えてくださる出来事の再現なのです。あの、気を落としながらエマオに向かっていた弟子たちが一日かけて体験したことを、ミサ聖祭の約一時間の中で、典礼という形でわたしたちは体験しているのです。

エマオに向かう弟子たちが体験したことは復活したイエスに出会っただけでは終わりません。イエスの姿はもはや見えなくなりましたが、彼らは時を移さず出発して、エルサレムに戻りました。聖書を説明してくださり、パンを割いて与えてくださる復活したイエスを体験した彼らは、自分たちが体験したことを喜んで告げ知らせる人に変えられたのです。

実は、わたしたちがあずかっているミサ聖祭も、わたしたちを変える力を持っています。みことばの朗読と聖体のうちにおられる復活したイエスは、わたしたちの食べ物となってくださり、わたしたちを復活のイエスの証人に作り変えるのです。

ミサ聖祭にあずかるたびに、わたしたちはエマオに向かう弟子たちの体験を積み重ねます。イエスがみことばを説明し、ご自分を食べ物として割いて与えてくださり、わたしたちの目が開かれて、喜んで復活したイエスを証言する。この一連の出来事を繰り返し体験するのです。

最後に、エマオに向かう弟子たちのすばらしい体験を、今まさに長崎教区全体が必要としています。来年の信徒発見150周年記念に合わせて、本日から3日間、教区代表者会議の第一会期が開催されます。

長崎教区が教区民一丸となって「参加し・交わり・宣教する」共同体となれるよう、教区長が効果的な方針を立てるための提言をまとめようとしているのです。実効性のある提言を示すために、選ばれた50人くらいの代表者がこの3日間力を注ぎます。

この3日間にも、イエスが聖書を説明してくださり、ご自身をパンとして割いてお与えくださり、行動する人に作り変えてくださるようにと願っています。わたしも、福見のミサを終えたらすぐ鯛ノ浦から長崎に渡り、代表者の意見の書記を務めることになっています。

信徒の皆さん。皆さんも「教区代表者会議・会期中の祈り」を唱えて、この集まりが意味のあるものなるようお祈りください。長崎教区の方向性がしっかり定まるように、恵みを願うことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週なぜかアメリカ大統領を「クリントン」と書いていた。相当疲れがたまっているのだろう。本日4日からの教区代表者会議(教区シノドス)書記に選ばれたので、まずは務めを果たすために出張する。そのついでにリフレッシュの時間を取ろうと思う。
▼先週、本来何を書こうとしたかをやっと思い出した。「あーこれだった」と思い出した時に、「これは、忘れるかもね」と、自分なりに納得した。携帯電話各社が、絵文字を統一する方向で動いているそうである。これは素晴らしい協力体制だと思う。
▼わたし自身がすでに経験している例を挙げると、ある人から届くメールで「了解しました[絵文字]」のメールが来ているようなのだが、そのメールはわたしのキャリアでは「了解しました[警官]」と変換される。手袋をした警官が敬礼をしている絵文字は表示されない。
▼ほかにも、「おいしそうです[絵文字]」というメールをもらったが、それはうまく絵文字に表現されず、「おいしそうです?」と変換されていた。わたしの「初鯛ラバ釣果」に賛辞をいただいた時のものだが、「おいしそうに見えませんけど、おいしいのですか?」みたいな意味でこちらには届いたのである。
▼賛辞を送ったつもりが、誤変換のためにとんだ勘違いをきたすところだった。こうしたことを踏まえて、このたび絵文字が統一化する試みを歓迎する。意思疎通にかかわることだから、もっと早く取り組んでもよかったはずだが。
▼聖ヨハネ二十三世教皇、聖ヨハネ・パウロ二世教皇の名が教会の歴史に刻まれることになった。詳細はカトリック新聞などで報道されると思うが、既にメディアでも取り上げられ、話題になっている。きっと誰か、洗礼の霊名に希望する人が現れるだろう。現代の教皇が聖人になる。これは、現代が聖人を必要としている時代であることの「しるし」なのだと思う。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===