神のいつくしみの主日(ヨハネ20:19-31)

今週は復活したイエスがトマスに現れる場面です。「見ないのに信じる人は幸いである」というイエスの言葉に耳を傾けたいと思います。

最近、玄関にオレンジの紙に「エホバの証人お断り」とメモを書いて貼り付けました。去年の流行語をもじって「お・こ・と・わ・り」と書いてみました。去年のご復活のころに訪ねてきたので、先回りです。

25日(金)に、今年の人事異動で旅立つ神父さまと、新しく来られる神父さまの見送り・出迎えをしました。旅立つ神父さまには「新しい任地で頑張って」と、お迎えする神父さまには「ようこそ、そして一緒に上五島の教会を盛り立てていきましょう」という気持ちになりました。

前任者とタイプの違う神父さまがやってくるたびに、司祭同士、司祭と信徒で、どんな化学反応が起こるか、楽しみでもあるし気にもなります。たいていは楽しみのほうが多いです。

直接の司牧には関係ないですが、ソフトボールのチーム編成で考えると、今年上五島に赴任してくる3人の神父さまのうち、2人はかなりの戦力補強ですが、1人はわたしの知る限り運動音痴です。まぁそれも含めて、違った化学反応を楽しみにしています。

さて福音朗読では、弟子たちのもとへ復活したイエスが現れて、大騒ぎになっていました。トマスはその場に居合わせなかったのですが、やはり出来事に乗り遅れたという感じがあったのではないでしょうか。

トマスは何か当てつけのように「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」(20・25)と言い張ります。

そんな意地悪なことは言わず、すぐに信じたいという気持ちも彼の中にはあったかもしれません。けれども、トマスの心の中の何かが邪魔をして、弟子たちの喜びの輪の中に加われなかったのでした。

もし、このまま出来事が終わって、イエスがトマスに現れなかったとしたら、不幸な結末になっていたかもしれません。イエスの復活を信じられないまま、弟子たちの一団からも離脱していたかもしれません。

もはやだれも、トマスの心を開くことができなくなっていたところに、復活したイエスが再び現れてくださいます。イエスはトマスにいつくしみを示し、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20・27)と諭してくださったのです。

トマスは「わたしの主、わたしの神よ」(20・28)と答えました。わたしは、ここで話は終わっているのだと思っています。この時点でトマスは復活したイエスに心を開き、信じる人に変わっているからです。

すると、そのあとに続くイエスの言葉「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)は、トマスにだけ向けられた言葉ではなく、後の人々、わたしたちも含めてイエスを信じようとするすべての人々のために向けられた言葉だと思うのです。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスは、何を「見ないで信じる」と言っておられるのでしょうか。もちろん、復活したイエスを見ないで信じるということがまずありますが、その意味だけでしたら、ほとんどの人が見ない人に含まれます。

すると、「見ないで信じる」という意味は、もう少し考える必要があるでしょう。朗読の中から、トマス自身にも、わたしたちにも当てはまりそうなものを拾ってみたいと思います。意外に思われるかもしれませんが、トマスは、彼がいない間にイエスが弟子たちに息を吹きかけながら言われた言葉の意味、これを見ていないのではないでしょうか。

聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(20・22-23)

これだけでは分かりづらいかもしれません。少し言葉を補うと、イエス聖霊を送り、罪を赦す権能をお授けになると約束したのは、その場に居合わせた弟子たちだけを考えていたのではないということです。イエスは、トマスも含め、11人の使徒すべてに権能をお授けになったのです。トマスはそのことを見抜き、信じることができませんでした。

エスは、確かにトマスも含めて、聖霊を受け、罪を赦す権能を受けることになるとお考えでした。それは例えて言えば、卒業式の日に、風邪を引いて欠席者がいるようなものです。学校の校長は卒業証書を手渡しながら、出席している人だけ卒業したと考えるでしょうか。むしろ、出席できなかった生徒を気遣いながら、式を進めていくと思うのです。

そのように、イエスはご自分がお選びになった弟子すべてが聖霊を受けることになる、罪の赦しを与える者となると考えておられたのです。トマスはそのことが信じられなかったので、もう一度トマスにも現れ、神のいつくしみを示されたのではないでしょうか。

復活したイエスは、ご自分の11人の使徒に対してだけでなく、イエスを信じるすべての人にも、同じ体験を用意しておられます。かつてイエスはニコデモに、「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(3・5)と言われました。

これは洗礼を暗示していますが、わたしたちにも同じことを言っているはずです。そこで問われているのは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)ということなのです。

わたしたちも、トマスと同じように、自分のためにも約束してくれた、そういう恵みを信じることが求められていると思います。最後の晩餐でご自分をお与えになると約束しましたが、今イエスは復活なさって、わたしたちにもご自分を与えてくださるのです。わたしたちはそこで、「見ないのに信じる」という信仰のわざが求められています。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスの約束に、わたしたちを加えてくださいと、このミサの中で願うことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼書こうと思ったことを巡回教会で思い付き、忘れないうちに書いておこうと思って浜串教会に戻って机に座ったのに、何を書こうと思っていたのか思い出せない。情けないやら悔しいやら。タイムリーな内容を思いついたような気がしたが、消えてしまった。
▼広島カープ。首位にいるというのは本当に気持ちのいいものだ。テレビを見ていてスポーツコーナーに「首位の広島は・・・」と必ず大きく取り上げてもらえる。先日は野村謙二郎監督が二塁塁審に食ってかかり、遅延行為を働いたとして退場になった。
▼あの物静かな監督が飛び出したのだから、判定に明らかなミスがあったのだろう。ニュースダイジェストでしか見ることができなかったが、サンスポの興奮した監督の写真を見ていてこちらが興奮した。広島はかつてブラウン監督という名物監督もいたことだし、今年は大いに観客を沸かせてほしい。
▼広島のドラフト1位大瀬良大地投手が4月24日の登板で2勝目を挙げた。楽天のゴールデンルーキー松井は23日の登板も振るわず、1軍登録を抹消され、代わりに1軍登録された2年目の森投手が初勝利。楽天よ調子を上げてくれ。日本シリーズを広島と楽天でやろうじゃないか。
クリントン大統領が来日した。長崎は被ばく者との面会や、長崎訪問を期待していたが、厳しい日程のためか実現しなかった。わたしも、アメリカ大統領はいつか長崎・広島を訪問してほしいと思う。核兵器を持つということは、過去にも責任を持たなければならないと思う。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===