聖木曜日(ヨハネ13:1-15)

シモン・ペトロはイエスに言いました。「わたしの足など、決して洗わないでください」(13・8)。「決して洗わないで」とは、たいへん強い言葉です。福音書を調べると、「決して」という強い言葉は、ほとんどの場合イエスの用いている言葉です。イエスが強い言葉を使うことができるのは、イエスにはすべての言葉に確信があるからです。

ところでペトロも「決して洗わないでください」と言ったのですが、ペトロにとってもこれからイエスがなさろうとすることは決してあってはならない、そのような行為は絶対に受け入れられないという確信があったはずです。

ペトロは戸惑い、混乱したのではないでしょうか。それでもイエスは、ペトロの足元にかがみ、足を洗います。ペトロにとってあり得ない行動を、イエスは何のためらいもなく実行します。ペトロの中で、「自分の先生であるイエスはこうあるべきだ」という姿が完全に壊れました。

エスは、ペトロの心の変化に十分気付いていたことでしょう。イエスは、「自分はここまでは変わることができても、これ以上は変われない」という壁が、まだあったのだと思います。イエスはその壁を壊し、ご自分が救いの計画の完成のためにすべてを与えつくす方であることを示そうとしたのです。

エスが弟子の足を洗う姿は、どこまでも自分を与えつくす姿です。それは十字架上の姿、また最後の晩餐で制定された聖体の秘跡を予感させます。イエスはご自分を与えつくすのに、「これ以上は決してできない」という壁を作りませんでした。十字架上の死は、尊厳を一切奪われる最期です。ご聖体は、ご自身の姿が消えてなくなる秘跡です。何も残さず与えることを、イエスはためらいもなく実行なさいます。

弟子の足を洗い、わたしたちの食べ物となってくださり、尊厳も投げ捨てて十字架に向かわれるイエスは、わたしたちに「これはできない、これ以上は決して受け入れられない」というさまざまな壁を壊してご自分に倣うように招いています。

わたしたちは日々、イエスに倣って生き方を整えてきています。その中で、「これ以上は決して受け入れられない」という限界を作っていないでしょうか。わたしたちの心の中にある壁は、よりイエスの招きに答えていくのに、妨げになっていないでしょうか。

もしわたしたちに、自分で作った限界や壁があるなら、イエスにその壁を壊していただきましょう。今日イエスは、すべての人の前にひざまずき、限界の壁を壊し、より自由にイエスに従う人になれるように導いてくださいます。イエスの導きに自分を委ね、壁を置かずにイエスの声に聞き従っていく恵みと勇気をミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼聖木曜日、伝統的に聖香油のミサが行われることになっている。長崎教区では火曜日に聖香油のミサが行われている。確かに典礼儀式書の細則を読むと、「この日に教役者と信者が司教とともに集まることが困難な場合には、復活祭に近い他の日を選んで行うことができる」となっている。
▼ルール上は問題ないが、わたしはそれを心の底から賛成しているわけではない。現状は「教役者と信者が司教とともに集まることが困難な場合」に当てはまると思えない。わたしの見たところ、現状はルールの拡大解釈であって、できれば聖木曜日に実施してほしいと思っている。
▼しかしこれ以上声を荒げても、わたしに何のメリットもない。従うしかない。だから聖火曜日に聖香油のミサに行くのは行く。その後に控えている「司祭の日の集い」も、ダイヤモンド祝(60周年)、金祝(50周年)、銀祝(25周年)、新司祭ともに関わりのある司祭の祝いなのでできるだけいるつもりだが、帰りの船の時間を見ながら帰るつもりだ。
▼聖火曜日は聖香油のために集まっているのか、「司祭の日」なるイベントのために聖香油のミサをしているのか。わたしにはどちらにも見える。まぁどちらでもいいけど。さっさと頭を切り替えて、聖木曜日に集中しよう。
▼今年はたまたま、聖木曜日に病人訪問の日程が重なっている。典礼儀式書の細則には、「聖体はミサの中だけで授けられる。病者には一日中、いつでも授けに行くことができる」とある。これこそ、最大限に解釈して活用すべき細則だと思うが。
▼小教区の巡回教会の信者で、本当にお見舞いが必要な病者がいる。夫は脳梗塞の後遺症を抱えて生活し、妻は老老介護で疲れ、平日のミサの帰り道でつまづいて倒れ、けがをした状態で今も生活を続けている。
▼ご聖体を授けるのは当然だが、わたしがその場に5分でも居てあげることが、夫婦の安らぎになる。だから、もし規則が許さないと言っても、わたしは聖木曜日と重なった今回の病人訪問でこの夫婦を訪ねることにしている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===