受難の主日(マタイ27:11-54)

キリスト教典礼の頂点、核心の部分である聖なる一週間を迎えました。受難の主日は、復活の主日までの一週間を先取りします。「かたくなな心の壁を壊す」というテーマで黙想したいと思います。

全体はイエスの受難と死を描いていますが、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」(27・51-52)とあって、イエスの復活を予感させる出来事が織り込まれています。

ですから、今日の典礼は、聖木曜日・聖金曜日・復活徹夜祭の聖なる三日間すべてに参加するのが難しい人にも、イエスの死と復活によってすべての人に救いがもたらされたことを黙想させます。

もちろんより確実にイエスの死と復活を黙想するには聖なる三日間の典礼に参加することが望ましいのですが、今日の受難の主日にも大まかな要素が盛り込まれています。

今年の受難の朗読は、マタイ福音書から選ばれています。2つの点を指摘しておきます。1つは、キレネのシモンのほかはイエスについて行く人が登場しないということです。母マリアも、イエスの愛しておられた弟子も、ベロニカという女も、誰も登場しません。もう1つは、マタイ福音書の中ではイエスの死は復活を前提としているという点です。

2つの点を指摘したのは、人間の心のかたくなさとつながりがあります。イエスにつき従う人がいないということは、そのまま、弟子たちをはじめとしてもともとイエスに従っていた人たち、そしてイエスを理解しない人たち、すべてが心を固く閉ざしている様子を描いています。

マタイの受難の場面には、イエスを死に追いやる人々が強調されていますが、背後に隠れているイエスを信じる人も、受難の場面ではともに心を固く閉ざしたのです。そんな中でイエスは十字架の上で命をささげます。ベロニカも、母も、イエスの愛しておられた弟子も、一緒にはりつけにされる犯罪人も、わたしたちが予想しているような出来事は何も起こらずに命をささげるのです。

これは、1つのことを強調しているように思います。それは、「かたくなな心の壁を壊す」ということです。ただの一人も、イエスを心配し、イエスについて行く人がいません。そんな中で、イエスはご自分の命を、十字架の上で粉々に砕いて、おささげになるのです。わたしたちのかたくなな心の壁を壊すためです。

聖なる三日間、イエスはわたしたちのかたくなな心の壁を壊し、悔い改めを促し、復活の喜びへと招いてくださいます。かたくなな心を自分ではどうしても打ち砕くことができない弱いわたしたちを、イエスが命をささげて救ってくださいます。感謝の心で、この聖なる一週間を過ごすことにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼「もしかしてだけど・もしかしてだけど・ちょっとひとやすみだけ読んでこれが説教ブログのおまけだってこと知られてないんじゃないの?」名前は知らないけど、お笑い芸人のまねをしてみた。
▼本当に、このコラムが「こうじ神父今週の説教」というカトリック教会のミサ説教メールマガジンの「おまけ」であることを知らない人がいるかもしれないと思い、今回呼びかけをすることにした。
▼さかのぼること12年前、2002年3月10日に、日曜日のミサ説教をメールマガジンで配信する活動を始め、今日まで配信702回を数えている。途中いろんな試行錯誤を経ているが、基本的には「ミサ説教」と「ちょっとひとやすみ(コラム)」の組み合わせで配信してきた。
▼一時期有料配信も手掛けていたが、有料配信を申し込む人の数に対して有料配信の手間のほうが負担が重く、有料はかなり前に廃刊にした。20人とか、30人有料配信に切り替えてくれるならそれはそれで考えるけれども、1人とか、2人の申し込みでは張り合いがなく、長くは続かなかった。
▼結果的に、無料配信は時代の流れとなり、多くの人に受け入れられ、今日を迎えている。そのメルマガ配信にあたっての、日々起こる出来事を綴ってきたのが「ちょっとひとやすみ」である。
▼このコラム欄は、思い浮かんだことを、思った通りに書いているので、わたしにとってのちょっとした息抜きになっている。もし、このコラムだけに目を通している人がいるなら、できれば本題の「こうじ神父今週の説教」に同時に目を通してほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===