四旬節第5主日(ヨハネ11:1-45)

四旬節第5主日、いよいよ典礼の頂点である主の受難と復活も近付いてきました。受難の週を迎える心の準備として、典礼のA年は四旬節第5主日に「ラザロの死とよみがえり」の出来事を取り上げています。「ラザロの生き返りにわたしたちの復活を見る」そのつもりで与えられた朗読に目を向けることにしましょう。

ここ数日、人生でいちばんたくさんの種類の薬を飲み続けています。尿酸値を下げる薬、コレステロールを下げる薬、風邪症状を抑える薬、扁桃腺の薬、痰を出しやすくする薬、喉に痛みが出たら飲む薬です。朝昼晩、飲む薬の種類は色々ですが、朝は今並べた薬を全部飲んでいます。薬だけでもちょっとした朝御飯です。

薬をまじめに飲んだおかげで、一週間つらい思いをしていた風邪の症状も今は楽になりました。今日は一週間遅れの釣り大会です。お世話係をしてくれる高井旅の海で、今年は魚を探してみたいと思います。

福音朗読に入りましょう。ヨハネ福音記者は、ラザロがイエスにとってどういう人であるかをさまざまな形で紹介しています。4つ拾ってみました。まず、姉妹のマルタとマリアが「あなたの愛しておられる者」(11・3)と紹介します。福音記者も、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(11・5)と証言しています。

次にラザロは、「わたしたちの友」(11・11)とあります。イエスの愛しておられる人、イエスやその弟子たちの友なので、何を置いても彼の元に駆け寄ります。

一方でラザロは、「墓に葬られて既に四日もたっていた」(11・17)とあります。この世の人々とのつながりはもはや断ち切られ、自分たちから遠く離れた人として扱われています。このラザロをイエスは生き返らせて、この世の人々とのつながりをすべて回復させようとします。

最後に、ラザロのためにイエスは涙を流されました(11・35参照)悲しみを分け合い、その人のために涙を流すのは、ラザロがイエスにとってどれだけ重要な人であったかを偲ばせます。

これらの部分をつなぎ合わせると、ラザロはイエスにとって放ってはおけない人、イエスの心を揺り動かす人、できるすべてのことを果たしてあげたいと思わせる人でした。

さて、ラザロについてこのようにまとめましたが、イエスが放っておけない人と考えているのは、本当にラザロだけなのでしょうか。わたしは、ラザロを通して、イエスがすべての人を同じように考えていると理解します。

エスがラザロを生き返らせたのは、すべての人を、ラザロと同じように思っている、放っておけない人として、心を揺り動かされる人として、できることをすべて果たしてあげたい人として見ておられる、そのしるしだと思うのです。

ところで、一人ひとりに置き換えたとき、本当にラザロと同じ接し方をしてもらっているだろうかという疑問を持つかもしれません。わたしの家族は亡くなった。そもそも生き返らせてもらった人など聞いたことがないと。

もちろん、ラザロと同じ体験は起こらないでしょう。けれども、イエスは誰一人放っておくことができなかったので、十字架にかけられていのちをおささげになりました。イエスの右と左には犯罪人が十字架にかけられていましたが、何とかしてその人をも救おうとされました。

そしてイエスは、復活してご自身にできるすべてをわたしたち皆のために果たしてくださったのです。イエスがラザロを生き返らせたのは、イエスを信じるすべての人を復活させるしるしでもあったのです。

もう一度、ラザロの描写を振り返ってみましょう。ラザロはイエスの愛しておられた者です。わたしたちもイエスの愛しておられる者です。ラザロはイエスの友でした。わたしたちも、どんなときにもイエスは友としてそばにいてくださいます。

ラザロは葬られて、四日もたっていました。わたしたちも場合によっては罪の闇に葬られ、既に自力では立ち帰れなくなっている時もあるでしょう。それでもイエスは、わたしたちを起こしに来てくださいます。

エスはラザロのために涙を流しました。同じくイエスは、わたしたちの悲しみに寄り添い、涙してくださるのです。ラザロとは、イエスがどんなお世話でも果たしてあげたい、わたしたちすべてのことです。

エスがラザロに果たしてくださったのは、この世の命の生き返りだけではありません。イエスはマルタに「あなたの兄弟は復活する」(11・23)と言われました。そして続けて、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11・25-26)とも言われました。

ラザロのことだけでしたら、後に続く言葉は必要なかったでしょう。これは、ラザロのことをきっかけにして、イエスを信じるすべての人に、復活への希望を持たせる招きとなったのです。わたしたちもイエスを信じているから復活に招かれると、ラザロの出来事は教えています。

わたしたちは出来事をより真剣に見つめるとき、イエスの働きが、働きかける目の前の人のためばかりではないことに気付きます。今ここでこのような働きをなさって、すべての人に同じ喜びを届けるしるしとしてくださっているのです。ラザロ一人を生き返らせる働きではなくて、イエスを信じるすべての人は、イエスによって復活の喜びにあずかれる。今はそのしるしを示しているのです。

2週間ほどすると、わたしたちもイエスのご受難とご復活の場面に立ち会うことになります。イエスはわたしたち皆が、かけがえのない人、一人も滅びてほしくない人、救われるために十字架にはりつけになることも厭わない人であることを証明してくださいます。感謝して、これからの聖週間の典礼にあずかることにいたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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iPhoneに切り替えて重宝していることと不便に思うことと両方経験している。まずメールに関しては、Gmailウェブメールの一種)も従来のドコモのメールも受け取れるので、1台でほぼすべてのメールが確認できるようになった。
▼ただ、文字入力は圧倒的に従来のケータイのほうが正確に早く打てた。以前のものは押し下げる感覚があり、ボタン全体の配置も中央のボタンに突起があったために指先の感覚で正確に探すことができた。タッチ式のスマホではそうはいかない。
▼さまざまな絵文字が用意されているのは分かるが、デザインがいまいち。サイトを探せば、おしゃれなアイコンやいわゆるスタンプみたいなものが見つかるのだろうか。
▼ドコモメールはワンテンポずれが生じる。メールの着信の合図を受けてメールソフトを立ち上げると、立ち上げてから受信をしている。ウェブメールはメールソフトを立ち上げた時点ですでにメールは受信できている。
▼カレンダーも、従来のケータイでは音で知らせる項目が必ず含まれていた。iPhoneにはないようだ。リマインダーには音で知らせる機能があるが、カレンダーに入力し、リマインダーでも記入するというのは労力の無駄ではないか。
▼画像の大きさも違いがある。従来のケータイで撮影したいわゆる「写メ」とスマホで撮影した画像では縦横のサイズが違っている。以前のケータイで撮影したものの中には、ケータイで眺めるために撮影しておいたものがあるわけで、それらをiPhoneに移し替えて眺めてもサイズの問題で不満が残る。画像の保存形式も、ぜんぜん違う。
▼ほかにもさまざまあるが、それでもiPhone欲しさに機種変更したのだから、がまんしろよと自分に言い聞かせている。ホームボタンという命綱のボタンだが、頻繁に押すときっと壊れてしまうと思う。でもそのころには2年が経過して、新発売のiPhoneに乗り換えているのだろうか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===