四旬節第4主日(ヨハネ9:1-41)

四旬節第4主日、A年は「生まれつきの盲人をいやす」物語でした。この中で、イエスが「シロアム『遣わされた者』という意味の池に行って洗いなさい」と言われた(9・7)この点に注目して「イエスに遣わされて主の思いを知る」というテーマで黙想してみたいと思います。

長崎大司教区の司祭異動がすべての長崎教区司祭に送られてきました。眼を皿のように見開いて読み返しましたが、わたしの名前は含まれていないので、今年も浜串小教区でお世話になります。

さて、選ばれた福音は長い長い朗読でしたが、この奇跡物語を考えるのに、他の奇跡物語を参考にしたいと思います。それは、ルカ福音書第17章の「重い皮膚病を患っている十人の人をいやす」物語です。両方に共通するのは、病人がイエスの指示された場所に行くという点です。

今日の生まれつき目の不自由な人は「シロアムの池」に行くように言われ、その通りにしましたし、比較するために紹介した物語では十人の重い皮膚病を患った人たちが祭司のところに行くように言われ、その通りにしています。この様子から、人はイエスに遣わされ、遣わされたその先で、イエスの思いに触れることが分かります。

3つの場面を取り上げたいと思います。1つ目は、通りすがりにイエスがこの生まれつき目の見えない人を見かけたという場面です。イエスはこの障害を抱えた人を導くために、「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗り」(9・6)シロアムの池に遣わします。ここで目が見えるようになり、イエスが奇跡をおこなう人であることを知ります。

2つ目の場面は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行かれた場面です。彼はまだイエスを見ていませんが、イエスのことを心から信じる人に変わっています。目が見えるようになって、重宝していることに感謝しているだけではなく、もっと踏み込んで、イエスはわたしたちと同じ罪の中にいる人ではない、神のもとから来られた方であると、考えるようになっています。

そして3つ目は、いやされた人が外に追い出されて、イエスと再び出会っている場面です。今度は、イエスを肉眼で見ています。そして「あなたは人の子を信じるか」とイエスに言われ、彼は答えて「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」と言います。

それに対してイエスは「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と答えると彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずきました。生まれつき目の見えなかった人は、3つの場面を通して、大きく変化していきました。

取り上げた3つの場面は、わたしはこの障害を抱えていた人がイエスに遣わされた場面だと考えています。1つ目の「シロアムの池」は明らかに派遣されていると分かります。けれどもその後の2つの場面は、ファリサイ派の人々のもとに連れて行かれ、そこから外に追い出されてと、迫害の中にあるわけです。それでもあえて、彼はイエスに遣わされてそこに置かれていると考えたいのです。

迫害が予想される場所に出向いても、先に大きな体験をしたので、迫害に屈しませんでした。彼は肉体の視力を回復して、それで終わりとはならず、自分をいやしてくれた人に誠実にふるまいました。肉体の視力を奪われていたときは、生きるために人の言いなりになっていたかもしれません。彼はその状態を抜け出して、自分が今あるのはイエスのおかげだから、イエスに背を向けるようなことはしないと決めたのです。彼はイエスに誠実に生きるという新しい生き方に目が開かれたのでした。

さらに、彼はファリサイ派に追放された後にイエスに出会います。彼は誰にもはばからずに「主よ、信じます」(9・38)と言ってイエスにひざまずく人に生まれ変わりました。肉体の目を開かれ、新たな生き方に目を開かれ、さらに信仰の目が開かれたのです。

比較のために紹介した、十人の重い皮膚病を患った人たちも、同じ段階を経ています。重い皮膚病から解放され、新しい生き方に招かれました。ただし、イエスへの信仰に目が開かれたのは十人のうち一人、外国人として差別されていたサマリア人だけでした。

わたしたちに当てはめてみましょう。イエスのなさり方は、人を遣わし、遣わした先でご自分の思いに触れさせるのでした。わたしたちも同じ体験をすることで、イエスの思いに触れます。言い方を変えれば、当たり前に見えているものも、イエスに遣わされて初めて物事がよく見えるようになり、その意味を深く学ぶのではないでしょうか。

一つ、紹介したいと思います。わたしたちは日曜日に集まって、主日のミサに参加しています。当たり前かもしれませんが、見方を変えて、わたしたちが一人一人イエスに遣わされて、この場に集まっているとも考えることができるのではないでしょうか。

ミサは、みなさんの考えによれば、司祭が一人でささげるものと考えているかもしれません。しかし祭司の務めを果たすのは、主任司祭一人ではないのです。洗礼を受けたすべての人は、共通の祭司職を委ねられていて、一人一人が信徒の立場で、祭司の務めを果たすのです。

ですから、ミサに集っているわたしたち一人一人は、実はイエスに遣わされて、ミサをささげるために集まっているのです。司祭が「主は皆さんとともに」と招くとき、一人一人が「また司祭とともに」と答えてミサをささげているのです。「また司祭とともに」という応答は、ミサの中で皆さんがささげている部分なのです。決して、司祭が一人でささげているのではないわけです。

今日も、わたしたちはイエスに遣わされて、遣わされた先でイエスの思いに触れます。今日わたしたちは、単にミサに参加するためではなく、ミサをささげるために集まっているのです。日々、イエスに遣わされることで、イエスの思いに触れることにしましょう。当たり前に見えていることの中に、イエスに遣わされているという見方を当てはめて、イエスの思いをより深く学ぶことにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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