四旬節第3主日(ヨハネ4:5-42)

先週は黙想会、ご苦労さまでした。わたしは、黙想会は信仰の畑を耕すまたとない機会だと思っています。黙想会でしっかり畑を耕して、生活に戻ってこれから信仰の種まきをすれば、きっと実を結ぶと思います。ぜひこれからの生活で黙想会の話を活かしてほしいと思います。

四旬節第3主日です。「イエスはあなたに決定的な関わり方をしてくださる」この点について考えてみたいと思います。ヤコブの井戸のそばでイエスは、サマリアの女に対して決定的な影響を与える出会いをなさいます。女性の負担の中でも特に重労働だったであろう水汲みに来た場面で、イエスは「生きた水」について語り始めます。イエスの言葉は、乾いた地に染み込む水のように、女性の心の中に染み込んでいきました。

エスサマリアの女の対話から学びを得る切り口として、わたしはサマリアの女の次の言葉に注目してみました。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」この女性はイエスが与えようとする生きた水を十分理解していたわけではないと思いますが、彼女の願う姿は、彼女が心の渇きを癒してくれる人を必要としていることがよく伝わると思うのです。

当時のパレスチナ地方の女性たちは、水くみはどうしても避けられない労働でした。井戸はしばしば遠く、掘られた井戸も深く、できれば避けたい重労働だったでしょう。しかも、この女性は1人の夫のためにこれまで水くみをしてきたのではなく、これまでに5人の夫がいて、その5人に水くみの苦労を強いられてきたのです。彼女は水をくむ度にのどの渇きをいやしましたが、これまでの人生で感じていた心の渇きは、5人の夫をもってしてもいやしてもらうことができなかったのです。

そこへ、決定的な形でイエスが関わってくださいました。見た目には、イエスは旅に疲れて、井戸の水をくむものも持たず、弱々しい姿だったのです。飲み水を与えませんでしたが、イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4・14)とおっしゃるのです。

人は、決定的な影響を与える人によって、どのような姿にでも変わることができます。イエスはすべての人にとって、決定的な関わり方を果たしてくださいました。ペトロには、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マタイ4・19)と言ってペトロの人生を決定づけます。罪深い人生にあった犯罪人でさえ、イエスは天の国に迎えられる人に変えることができます。

こうした決定的な関わりかたを、サマリアの女から始まって、地域の住民の多くが経験したのです。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4・42)

わたしたちは、どこかで自分の歩むべき道を決定づける人に出会って今を生きているのだと思います。だれにでも、忘れられない出会いがあって、その出会いの中で受けた影響を粋に感じて、人生を歩いているのではないでしょうか。

この前、民放のドキュメンタリー番組で、肺の移植を専門にしている外科医が取り上げられていました。その外科医は、先輩医師が自分に言ってくれた言葉を心に刻み、いつも思い出していると話していました。それは、「将来1人でもいいから、あんたがおったから助かった。他の誰でもない、他の外科医じゃなくって、あなたがいたから助かったんですと言う患者が1人でも出来たら、君の外科医人生は大成功。外科医になった意味があったと思いなさい。」というものだそうです。

場面を観ながら、2つのことを思いました。わたしを決定的に導いてくれた人のことと、わたしはだれかに対して、決定的な影響を与える人になれるだろうかということです。まずわたしに決定的な影響を与えてくれた人は、高校を卒業して司祭になるまでの8年間、大神学院で指導をしてくださったカナダ人の司祭を挙げることができると思います。

この指導担当司祭にさまざまな導きを受けましたが、「神さまはあなたが思いもしない形ででもあなたを準備し、ご自分の道具にしてくださいます」という言葉が特別に残っています。わたしが神の前にへりくだって、「わたしでよければ、どうぞお使いください」と心から思えるようになったのは、カナダ人指導司祭のあの言葉だったと思います。

一方で、わたしはさきほどの外科医が心に刻んだ言葉を自分に当てはめ、「ナカダコウジというカトリック司祭がいたから助かった」そんな司祭になれているだろうかと考えました。この部分は、恥ずかしい話ですが、自分からはまだ「この人だ」という人を思い出すことができません。「中田神父がいたから助かった」という人が1人でもいれば、司祭になった意味があったと言えるでしょうし、もしかしたら地獄の滅びからも免れることができるのかも知れません。

エスは皆さんお一人お一人にとっても、決定的な関わりをしてくださるお方です。時代を超えて、場所を越えて、その事実は変わりません。わたしが知っている範囲でも、結婚した妻を通してイエスの決定的な導きを受けた人を知っていますし、命に関わる場面で司祭を呼び、秘跡を受けて死の淵から帰ってきた人も知っています。皆さんにとっても、同じようにイエスは人生の中で決定的な働きをしてくださっています。

もし、自分の中でイエスが深い関わりを持ってくださっていることに感謝しているなら、次はわたしが、だれかに対して決定的な役割を果たすお手伝いをしてみましょう。わたしが人を助けるとか人を救うというとらえ方ではなく、イエスがその人に決定的な関わりをもってくれるために、わたしが一役買うということです。

エスのために一役買ってくれる人を、イエスはいつの時代にも必要としています。お役に立てるならと力を貸してくれる人がいるおかげで、イエスはいつの時代にもどんな場所でも、具体的なあの人この人に、救いのわざを届けておられるのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼ときどき、黙想のアイディアになりそうなことをメモを取っている。日々のミサの短い説教の中で、「これだ」と思うことがあり、ミサが終わってすぐにメモを取るようにしている。そんな「ひらめき」があった平日のミサは、「話したことを忘れないようにしなければ」という意識でミサに集中できていない・・・かも知れない。
▼いろいろ思い付くことがある。これまでもいろいろあったのだが、メモを取っておけばと本当に後悔する。それでも、メモを取り始めたところがスタートだと思うようにしている。後ろを振り向いても過去には戻れないのだから。むしろ、今から過去への後悔を忘れるほど努力すればよいではないか。
▼高校生に向けて、一つのアイディアが浮かんだ。高校生を指導する立場になったときに話してみようと思っているネタである。わたしたちはどうしても真面目になりすぎて、「立派な高校生になるように」と指導しがちである。そんな指導はほかの人に任せればよい。わたしはこう言いたい。「親不孝をしなさい」と。
▼現代、親不孝な高校生とはどんな高校生だろうか。立派に高校卒業して、引きこもりになることだろうか。進学はひとまずしたけれども、大学や専門学校を中退することだろうか。保護者はその程度の行動でわが子に唖然とするだろうか。
▼わたしは、その程度で腰を抜かしたりはしないと思う。ある程度悲しむかも知れないが、仰天する結末ではないと思う。そうではない。あなたが身につけた高等教育をひっさげて、修道会の志願者になったり、司祭を目指す神学生になること。これこそが、現代にあって保護者が腰を抜かし、予想だにしなかった結末なのではないだろうか。
▼「こんな道を選んでもらうためにおまえに勉強させたのではない。」保護者はかんかんに怒るかも知れない。面白いではないか。その親不孝のために、決断した青年は勘当されるかも知れない。いよいよ面白い。だから、いつか話す機会があったら、わたしが考える「親不孝」をしてみないか?と誘ってみようと思う。
▼黙想会の効用とか、黙想会のとらえ方については説教で話をした(つもり)。ここは、ゆるしの秘跡の場でひらめいた。一人ひとりの告白のあとに、「黙想会という機会をとらえて、お一人お一人の信仰の畑を耕しましょう。そして・・・」と言い聞かせをした。これもわたしの中で「キター」と思ったアイディアである。
▼ほかにも、司祭がミサをささげる中で、単調にならないための一つのエピソードをある場面で与えてもらった。わたしはそのアイディアを自分に言い聞かせ、心ここにあらずというようなミサにならないように戒めている。これは司祭の黙想のためだが、これを活かす場所がないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===