四旬節第2主日(マタイ17:1-9)

わたしは一度だけ、イスラエルを巡礼したことがあります。当時は島本大司教さまが、ぜひ青年たちを連れてイスラエルを巡礼したいと計画を発表なさり、各地区から全部で30人の青年が選ばれました。

この青年たちに加えて、各地区の若手の司祭たちが同行することになり、当時佐世保地区にいたわたしは、この地区の青年たちの引率として、エルサレムを初めイスラエルのあちこちを約2週間にわたって巡礼したのでした。

その中に、今週朗読に選ばれている箇所、主がご変容されたとされる山が含まれていました。タボル山というのですが、わたしたち巡礼団は、グループに分かれて車に分乗し、山の頂上にある「ご変容の教会」を訪問しました。

イスラエル各地を巡礼する間、いつも欠かさずしていたことがあります。それは、巡礼地にたどり着くたびに、その土地にまつわる聖書の箇所を朗読し、それについて大司教さまが解説を加え、しばらく朗読箇所について黙想することです。

タボル山でも、まさしく今週朗読された箇所を当番の司祭が読み上げ、出来事に思いを馳せたのでした。巡礼に行った当時30代前半だったわたしは、ペトロや一緒にいた弟子たちがイエスの姿が変わる様子に息を呑んだように、単純に光景を思い浮かべることしかできませんでした。

もしもう一度、タボル山に登ってご変容の教会で朗読箇所を読めば、もうちょっと違った感想を持つと思います。なぜならイエスの姿が変わったのは、このあと山を降りて行くことと深く関係しているからです。山を降りて、群衆のいる平地での宣教活動に戻る弟子たちに、大切なことを教え、大切なものを与えるためのご変容だからです。

ご変容の瞬間、イエスはご自分の栄光の時が近づいていることを十分感じていました。「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(17・2)その姿は、受難のあとにやって来る復活の栄光の姿でもあったからです。

のちの栄光の姿を山上で弟子たちに見せたのは、このあと弟子たちが山を降りて、これからも続いていく宣教活動、その時受けるであろう迫害、この困難をしっかり担っていく力を与えたかったのではないでしょうか。

先週わたしは、イエスが誘惑を受ける場面で、「悪魔の罠にいっさい手を染めず」「神との絆を断ち切らないような生活を心がける」こうしたことを話しましたが、今週のイエスの模範はさらに踏み込んで、「神々しさを身にまとうほど御父と一致したわたしがあなたたちに近づいて触れるから、恐れるな」と呼びかけます。

先週はいわば「○○しないように」という消極的な呼びかけでした。今週はより積極的に、御父と深く一致して「顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」イエスが触れてくださるから、あなたは恐れることはない。そう励ましておられるのです。

エスは山に登って御父と深く一致した姿を見せました。山に登るためには、地上での生活を脱ぎ捨て、体一つになって出かける必要があったと思います。また、一致するためには御父が自分のすべてとなる必要があります。この姿を、山を降りて行く弟子たちに見せて、山を降りてからも、イエスの声を聞き、イエスが弟子たちのすべてとなって宣教活動が続いていくよう望まれました。

今週わたしたちの小教区では、一人のお子さんが初聖体を受けます。初聖体は、イエスさまと一致する大切な日です。イエスさまは、御父と一致する姿を示して、わたしたちを招きました。初聖体を受けるお子さんも、イエスさまと一致するためにすべてを横に置いて、イエスさまの前にひざまずいています。

初聖体を受けるお子さんの姿は、わたしたちにももう一度思い起こしてほしい姿です。教会に来て御聖体をいただいてイエスさまと一致する。それは弟子たちがイエスと山に登った姿のようです。イエスと一致する場所である教会に集うために心と体の準備をし、イエスさまと一致した喜びを携えてお御堂という山を降りて、毎日の生活に戻っていくわけです。そこでは、イエスさまをいただいている喜びと感謝を、生活の中で現していくことが期待されています。

恐れている弟子たちに、イエスは触れてくださいました。初聖体を受けるお子さんにとっても、御聖体を拝領する瞬間は「イエスが触れてくださる」瞬間だと思います。イエスが触れてくださると、拝領する前に抱いていたすべての恐れや不安が取り除かれます。わたしたちもまた、御聖体を拝領することでイエスが触れてくださり、抱えている恐れを取り除いてくださるのです。

四旬節を進む中で、イエスはさらに信仰の歩みが進むように招いています。神との絆を断ち切る誘惑を退けることから出発して、今週はより積極的にイエスに一致した喜びと感謝を生活の中で保ち続けるよう期待しています。信仰の積極的な歩みを支えてくれるのはもちろん御聖体の恵みです。

初めて御聖体をいただくお子さんの喜びと感謝を、わたしたちも今週分かち合いましょう。イエスは御聖体にとどまってわたしたちと共にいてくださいます。この真理を生活の中で証ししましょう。また黙想会を通しても、イエスが共にいて力づけてくださることを体験することにしましょう。

‥‥‥†‥‥‥‥
ちょっとひとやすみ
‥‥‥†‥‥‥‥

▼3月12日に48歳の誕生日を迎えた。45歳も48歳もたいして変わらないが、40代の時間があと2年と限られてきたことは実感する。もはや人生の折り返しも過ぎ、のこりは12.195kmだと思っているので、これからは何が起こってもおかしくない。
▼今月初めに処方箋に沿って出された1ヶ月分の薬を受け取った。これで2回目、服用も2ヶ月目に入ったことになる。薬は2種類、コレステロールの値を下げる薬と、尿酸値を下げる薬。これで立派な病人である。食事のあとに薬を並べていた人々を憐れんでいたものだが、それももう過去の話になった。
▼誕生日に「おめでとうございます」という声をたくさんかけてもらった。大変ありがたいことで、心にかけてもらえることを感謝して生きたいと思う。1件だけ、仕事を頼んでくる電話が入った。誕生日に仕事を入れようとするなんて、どこのどいつだと思ったら、修道会が経営している保育園からだった。
▼内容は、「保育園の職員研修で、講師を務めてもらいたい」というものだった。ざっくばらんな電話に、おおざっぱな依頼内容。こんなテキトーな依頼を引き受けるほうもテキトーだとつくづく思う。あとで詳細な依頼の書類が届くそうだが、電話で聞いた内容に、少し説明が加わる程度だと思うが、どうだろうか。
▼断ってもよかったのだが、ちょっと断りにくい事情があった。電話をかけてきた保育園の園長が、同じ郷里の出身で、いろいろたどると他人ではないシスターなのである。まぁわたしも人の子で、先ではあちこちの保育園を抱えた小教区にお世話になることだし、恩を売っておいても悪くないかなぁと思ったので断らなかった。
▼それにしても、漠然としたテーマに対して、どんな準備をすればよいのだろうか。毎年、どんな講師を依頼していて、どんな順番でわたしになったのだろうか。そういうことを考えながら、あと3ヶ月近くも講話を考えなければならないことになる。最後は、自分でこうと決めたものを持っていくしかないか。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===