四旬節第1主日(マタイ4:1-11)

灰の水曜日を経て四旬節に入りました。この期間を「神との絆を確かめる日々」とするため、朗読された福音に目を留めたいと思います。

2月の最後の週でしたか、長崎に出かけていたときのこと、司祭館からケータイに電話がかかって、賄いのシスターが「中田神父さまに用事のある人が来ています。電話を代わります」と繋いできました。電話に出たのは見知らぬ声の人で、「自分は船外機を買い取りに来た。9.8馬力の船外機を売ってください。」と話しています。

船外機を売ってくれと言う電話の相手は、わたしには最近はやりの「押し買い」にしか聞こえませんでしたので、「きっぱり断る」と伝えました。わたしの毅然とした態度に「交渉の余地がない」と思ったのか、すぐにその人は引き下がり、わたしが電話を切って終わりました。

これは間違いなく、わたしがボートをまったく動かさないからこのような隙を突かれるのであって、一刻も早く船を海に浮かべ、アラカブカサゴ)釣りに行かなければならないと感じました。それでご苦労ですが、この話を聞いたお父さんたちの中でどなたか、わたしのボートを降ろして係船場に繋いでおいてほしいと思います。天候を見て、すぐに今年の最初の釣りに出かけたいと思います。よろしくお願いします。

四旬節第1主日は、ABC3年周期のどの年もイエスが悪魔から誘惑を受ける場面が選ばれます。悪魔は三度、イエスを試みるわけですが、その誘惑の言葉は、共通した特徴があるようです。

マタイ福音書第4章、悪魔の最初の誘惑は「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(4・3)となっています。二度目の誘惑は「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(4・6)です。三度目は「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら」(4・9)と言っています。

共通する特徴があると言いましたが、共通点にお気づきになったでしょうか。わたしが共通すると見て取ったのは、「悪魔の誘惑に、自発的に応答させようとしている」という点です。悪魔は巧みにイエスを罠に引きずり込もうとしますが、この誘惑によってイエスがもし過ちを犯すとすれば、自発的に応答したときだということです。

このやりとりは、わたしたちにも当てはまります。わたしたちが罪を犯し、悪に引き込まれるのは、自発的に誘惑に応答したときなのです。イエスは今日の誘惑の場面で、いっさいの自発的応答をしませんでした。石がパンになるように命じなかったし、飛び降りなかったし、悪魔をひれ伏して拝むこともしなかったのです。

ついでの話ですが、悪い事柄を、悪いと知りつつ、自発的に行ったときに罪を犯すのであって、たとえば自発的にしなかった場合は罪が成り立っていないということをよくよく分かってほしいと思います。

具体的に言いますが、具合が悪くて日曜日のミサに行きませんでしたとか、入院していて日曜日のミサに行きませんでしたというのは、罪として成り立っていないのです。浜串小教区に来て、告解場に座って皆さんの告白を聞きながら、「具合が悪くてミサに行きませんでした」「入院していてミサに行きませんでした」と耳にタコができるほど聞かされましたが、罪が成り立っていないのです。

深酒して、日曜日のミサに行けなかった。これは罪になります。度を過ぎた飲酒が、どんな結果をもたらすか、おおよそのことは分かっていながら、それでもあえて深酒してミサに行けなくなっているからです。

通常の生活の中で、朝起きられないほど熱があってミサに行けなかった。この人のどこが、悪いと知りつつ、自発的にミサに行かなかったことになるでしょうか。詳しく説明したのですから、今日以降に「具合が悪くて・・・」と告解場で言う人がいるなら、それこそ具合が悪くなるくらいの量の祈りをわたしが命じます。覚悟しておいてください。

もう一度福音朗読に戻りましょう。悪魔はあえてイエスに三度も誘惑を仕掛けました。それは、イエスから、御父との絆を自発的に断ち切らせようとするためです。悪魔の誘惑に、自発的に応答する態度を引き出させて、御父と御子の絆を断ち切らせようとしているのです。

エスは、悪魔の罠にいっさい手を染めませんでした。イエスが見せた姿は、ご自身の御父に対する揺るぎない信頼を示すためだけではありません。わたしたちに、それぞれの生活の中で神との絆を断ち切ってはいけない、その模範を示すためでもありました。

急に体調をこわして日常の信仰の務めを果たせないといったことをこれまでに経験したかも知れません。いつも休まずにミサに通っていたのに、いつも欠かさずに朝夕の祈りを唱えていたのに、ミサに行けなかった、祈りを休んでしまった。そうしたことは気落ちする出来事、自信を失うショックな出来事かも知れません。

突発的な出来事は、わたしたちの神との絆を断ち切ることは決してないのです。しかしもし、どんなに小さな出来事であっても、それが悪いことと知りつつ、自発的に行うなら、神との絆を断ち切る罪です。

わたしはタバコの投げ捨てを何よりも嫌う人間で、自分の前で信号待ちをしている車がタバコを車の外に捨てようものなら、降りて行ってわざわざ捨てたタバコを拾って車の中に投げ返します。心の中でですが。内心は投げ返してやろうかと思うくらいタバコの投げ捨てが嫌いです。

あの行為は、悪い事柄を、悪いと知りつつ、自発的に行っているのですから、神との絆を断ち切る罪なのです。いつだったか司祭館に訪ねてくる通路にタバコを投げ捨てた人がいたので、拾って洋服の中にねじ込んでやろうかと思うほど本当にムカッと来ました。

まぁとにかく、お一人お一人の生活から、神との絆を断ち切ろうと悪魔はあの手この手を考えています。わたしたちは、決して挑発に乗って自発的に応答してはいけません。「神の口から出る一つ一つの言葉」により頼み、過ちがあればいつでも「退け、サタン。」というイエスの厳しいことばの前に身を砕き、へりくだりましょう。この四旬節中、神との絆を確かめながら、償いの精神に生きる日々といたしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼昭和40年の4月から昭和41年の3月までの生まれの人は、わたしと同級生である。その中でも新上五島町の東浦小学校を卒業した人は、わたしを当然知っているはずである。だが、「当然」というのはどうやらそうでもないらしい。
▼わたしがいつもお世話になっている郵便局に、名前に見覚えのある局員が配置された。もう1年前のことである。そこで窓口で用事をお願いしている間に「わたしは東浦小学校卒業で、中野の出身です」と言ってみた。するとその人は「わたしも実は、東浦小学校卒なんですよ」と言う。
▼「同級生じゃないのかな」と思ってこっちは投げかけているのに、「奇遇ですねぇ」みたいに扱われた。仕方がないのでそのままにしていたら、この局員が1年経ってから「中田さん、わたしと同級生ですか?」と言う。
▼だから言ったじゃないか。「同級生だろう?」って。面倒くさいなとは思ったが、同級生の名前をずらっと並べて思い出すきっかけを与えてくれたら、嬉しそうに反応してくれた。だが肝心のわたしがクラスにいたことは思い出せないらしい。少なくともわたしは、小柄で華奢な体型の彼をおぼろげながら記憶しているというのに。
▼地元の上五島に残って、地域を支えてくれている同級生がたくさんいるはずである。わたしもどこに投げかけてよいのか分からないので、窓口を教えてほしい。あるいは、かつての同級生と直接出会える土地にいる間に、できるだけの人と会っておきたいから、何とかして名乗り出てきてほしい。
▼これだけ情報の時代にありながら、なぜ上五島にいて上五島の同級生と会う機会に恵まれないのだろうか。「ゆびとま」というサイトを見たことがあるが、同級生の名前はほとんど掲載されていない。ではfacebookか?これもまた、それらしい名前に当たったためしがない。
新上五島町でこのブログを閲覧している人は何人いるだろうか?そうした読者にも、できたら力を貸してほしい。かつては会いたいとも思っていなかったが、わたしもすでに赴任して4年が経過しているので、いつまでもここにいるわけではない。昭和40年4月から、昭和41年3月までの、東浦小学校卒業生。名乗り出てほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===