年間第8主日(マタイ6:24-34)

長崎教区にとって、また個人的には中田神父にとって恩人である道向 栄神父さまが2月26日肺炎で亡くなりました。87歳でした。今週の福音朗読と重ね合わせながら、今日は恩人の神父さまを偲びたいと思います。

郷里の鯛ノ浦教会に残されている台帳を調べると、わたしに洗礼を授けてくれたのは山内 豊神父さまでした。けれども、わたしの記憶の中には、山内神父さまのことは何もなくて、小さい頃の神父さまというとやはりこの亡くなられた道向神父さまということになります。

神父さまは鯛ノ浦にいるときは病院に通院するということで海上タクシーで若松に渡っていました。その時わたしも海上タクシーに乗せてもらったりした覚えがあります。

また侍者は、クリスマスにご褒美で5百円札をもらっていました。結婚式の侍者や葬式の侍者のときにも特別手当で5百円札をもらっていたと思います。そうやって機会があれば呼び出されて手伝いをしていたおかげで、神父さまという生き方に親しく触れることができました。

6年生の時、2通りの神学生の募集が回ってきました。1つは、当時大分教区の司教さまだった平山司教さまが、上五島下五島をくまなく回って募集していました。司教さまなんて滅多にお目にかかることはないわけで、「あなたもうちの神学生になりませんか」と、指輪をはめて赤い帽子と赤い帯をした立派な身なりをした人から誘われたものですから、「いいなぁ」と一瞬思いました。

そこへ道向神父さまが割って入りまして、「ダメダメ。この子は長崎教区の神学生にやるとやけん」と言っておられたのを覚えています。道向神父さまの賢明な判断があったと感じています。

その後、教区の神学校の校長先生が募集においでになり、当時の校長であった浜崎 渡神父さまから「ぜひ神学校においでなさい。これを学用品の足しにしなさい」と言われて、ここでも5百円札を受け取りました。最終的にこの5百円札が決め手となり、神学校に入学したのでした。

神学校に入学してからも、休暇に入ると司祭館に真っ先に挨拶に行き、休暇中は何があっても毎日ミサに行って、聖書朗読やそのほかの典礼の手伝いをさせられました。信心業についてはことさら厳しい神父さまでしたので、神学校にいるときよりも、休暇中に道向神父さまにしごかれるほうがきつかったかも知れません。

そうやって召し出しの最初の時期を過ごしましたが、道向神父さまはわたしが高校生になった年に、佐世保の鹿子前教会に転勤していきました。すると鯛ノ浦の神学生は長崎から佐世保経由で鹿子前に立ち寄ってから休暇に入るようになりました。さらに大神学院の神学生になっても、道向神父さまの導きをもらいながら育ったと言ってもよいと思います。その中に、今日の福音に繋がるさまざまな教えをいただきました。

たくさん学ばせていただきましたが、それはもしかしたら、「よく考えたら」という条件付きだったかも知れません。わたしが見た範囲で、道向神父さまが乗っていた車は晩年を除いてはマークtwoでした。コマーシャルではないですが、「いつかはマークtwo」と思ったものでした。

行った先行った先で司祭館を作り替えました。場合によっては教会とどっちが大きいかなぁという司祭館に見えました。神学生は来客用の応接間ではなく、執務室に通されましたが、そのときどきの最新の家電がずらっと並び、圧倒されました。

ただ一方では、信心をおろそかにすることは決してありませんでした。その姿を見ながら、「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(6・24)というみことばをしみじみ考えることになりました。

神学生として教会の手伝いを丸一日すれば、その間に司祭館で食事もいただくこともありました。司祭館の食事は、目を見張る内容で、「こんなの食べたことないなぁ」と思いながら出されたものをほおばりました。後で考えてみると、鯛ノ浦の時代から足が痛いと言っていたのですが、痛風の症状があったのかも知れません。

食事をいただくたびに驚きの連続でしたが、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」(6・25)というみことばは、わたしにとってはどこか遠い場所で起こっているのではなくて、すぐ目の前で起こっていることでした。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(6・33)このみことばで道向神父さまのことが偲ばれるのは、常に赴任した教会で信徒の動きを把握していたということです。当時パソコンもワープロもなかった時代に、ガリ版印刷で教会の全世帯の記録を印刷したものを資料として用意してわたしたちに見せてくれていました。どんなに小さな出来事でも、その資料を見れば一目瞭然でした。

神の国がどのようにこの小教区で根付き、育っていくのか。それぞれの信徒がどのような霊的状態にあって、どんなお世話を必要としているのか。いつも綿密に調べ上げて資料に残していました。大変に筆まめで、どんなことにも必ず返事をくださり、それはもうまねのできない細やかさでした。結論としては、すべてが神さまから与えられ、すべてを神さまに委ねていればよいと、心から信じている神父さまでした。

「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(6・34)道向神父さま、ゆっくりお休みください。明日の長崎教区のことは、明日を担う世代が思い悩み、悩み抜いて舵を切ります。神父さまの今日までの苦労は、十分神さまに知られています。どうか、鯛ノ浦から送り出した出来の悪い後輩司祭のために、神さまに取り次ぎをお願いします。

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ちょっとひとやすみ
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▼恩人の司祭が肺炎で亡くなった。あっけない幕切れだった。最近は、お世話になった司祭と司教で食事会をして神父さまの労をねぎらうのが恒例で、今年はどこでいつしようかと一度だけ話を持ったことがあったのだが間に合わなかった。
▼わたしの記憶では、観葉植物をたくさん育てていた。狩猟が今ほど危険視されていない時代で、キジ撃ちにいって剥製にしたキジが来客用の応接間に飾ってあった。ガラスの戸棚には板チョコが積まれていたが、あれは今思うとパチンコの景品だったのかも知れない。
▼日曜日のミサの侍者をしていて、一つ疑問に思うことがあった。説教のときに、「チースリク神父」の名前の印刷物が置いてあって、どうやらそれをそのまま使っていたらしいのである。当時のことを確かめるためには、カトリック神学院の福岡キャンパスに出向いて資料を突き合わせるしかないが、今更調べてどうなるものでもないか。
▼さまざまな逸話がある。ここでは書けない。さまざまな武勇伝を聞かされたが、幼い頃は真に受けていたが、あとでは半信半疑だった。そんなことまでご自分の武勇伝にしていいのかなぁ、という内容もあったからだ。
▼それにしても、名物司祭がまた一人旅立ったことは間違いない。どの司祭も個性的だが、大先輩のような司祭はこれからは登場しないかも知れない。皆同じような個性で、まぁちょっと変わっている、その程度の差しかない時代だからだ。
▼神学校に送り出してくれた恩は一生忘れない。主任司祭の推薦がなければ、神学校入学は許可されないのだから。卒業間際に警察沙汰を起こしたわたしを寛大に受け入れてくれたのだから、その恩は一生かけて報いたいと思っている。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===