年間第6主日(マタイ5:17-37)

今週の福音朗読のまとめとして、「イエス・キリストというピースを埋めて人の一生は完成する」としたいと思います。わたしたちの人生に起きるさまざまな場面はどこかできちんと繋がっているのですが、人生をパズルにたとえるなら「イエス・キリスト」というピースがあって初めてすべに説明がつき、すべてが意味あるものになるということです。

いよいよ、およそ100キロの徒歩巡礼が明日から始まります。このあと鯛ノ浦11時発の船で長崎に移動し、明日の朝、国宝大浦天主堂で巡礼に参加する神父さま6人でミサをして、朝8時に大浦を出発します。予定では3日かけて福岡県三井郡大刀洗町にある今村教会に到着となっています。無事に帰ることができるように、お祈りください。

月曜日、巡礼前の最後の調整に浜串教会から鯛ノ浦教会まで歩いて往復したのですが、神ノ浦集落内の狭い道路を歩いていて軽自動車と接触し、初めて「死ぬかも知れない」という恐怖を味わいました。わたしは道路端の白線の上を歩いていたのですが、やってくる軽自動車は脇見運転をしていたのか、わたしにまっすぐ突っ込んできました。生まれて初めて、脇腹の肉が役に立ちました。今回のことを教訓に、ウォーキングに出るときは保険証と免許証くらいは持っていこうと思います。

教会入り口に貼り付けた巡礼コース表は御覧になったでしょうか。浦上のキリシタンが自分たちの信仰をプチジャン神父に「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」と表明した2年後の1867年に、浦上キリシタンたちは今村のキリシタンを確かめに行きました。彼らは「長崎ではフランス人宣教師が入っている。宣教師の居留地内には教会も建てられている。宣教師から教えを受けることもできるし秘跡を授けてもらうこともできる」と伝えに行ったのでした。

今村のキリシタンにも、長崎のキリシタン同様正統信仰が誤りなく保たれていたのですが、外国に港を開いた長崎は外国人居留地に宣教師がやってきて、正統信仰を確認してもらうことができたのに対し、その他の地域では宣教師は移動が制限され、入ることは叶いませんでした。

もし勇気あるキリシタンが長崎の状況を伝えに行ってくれなかったら、外国人居留地から遠く離れた人々はカトリック教会に復帰できなかったかも知れません。命がけで守り抜いてきた人々の信仰を宣教師が正しいものと確認する。この1つの作業、1つの部品が欠けるだけで、260年もの間奇跡的に守り抜いてきた信仰がバラバラになってしまう危険もあったのです。

今週選ばれた朗読箇所でイエスは律法について次のように仰いました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5・17)

エスが律法を完成させるとはどういうことでしょうか。わたしは、イエスが律法と預言の書すべてをつなぎ止める鍵を持っておいでになった、というふうに考えてみました。
つなぐものがなければバラバラになる。材料をつなぐのにどうしても必要なものがあるように、イエスは律法と預言書がバラバラにならないようにつなぎ止めるのに必要な鍵として、おいでになったのです。

エスが宣教活動をしていた当時、律法はバラバラになりかけていました。それぞれの掟が、どのように結びついて、全体として人を神へと向かわせるものなのか、あるべき姿を失っていました。そのことを見事に表しているのが律法学者の次の質問です。

「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』」(マタイ22・35-36)どれが第一となって、律法がしっかり組み合わされてわたしたちを活かす掟となっているのか、彼らは見失っていたのです。

今日の福音朗読の中にも律法がバラバラになっているさまがあちこち見られます。「殺してはならない」という掟は理解していても、それが「兄弟に腹を立てる」「ばかと言う」「愚か者と言う」それらと実は繋がっていることは理解していなかったのです。それに似たことが今週の朗読にいくつも紹介されています。

これに対し、イエスははっきりと、ご自分が律法と預言書の要の石、すべてを一つにつなぎ合わせる鍵であることをお示しになりました。しかも、とてもわかりやすい言葉でお示しになりました。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」(同22・37,39)イエスが、律法のすべてをつなぐ鍵となってくださり、律法は完成されました。

もっと言えば、イエスはすべてのものを一つにつなぎ合わせ、完成する鍵です。わたしたちの人生の一つ一つの出来事を意味あるものにつなぎ合わせてくれるもの、それは運命とか偶然とかではなくて、イエス・キリストなのです。都合の良い出来事には自分なりの意味を見つけるかも知れませんが、説明のつかないこと、ほかの人には降りかかっていない災難など、すべてを意味のあるものにしてくれるのは人間の力では到底不可能です。イエスはそれらをすべてつなぎ合わせ、わたしの人生の中で意味のあるものにしてくださいます。

わたしは明日から、徒歩巡礼の旅に出ます。260年の迫害に耐えて信仰を密かに守り、子孫に伝えた苦労は、どんな言葉でも説明し尽くすことはできないと思います。ですが、「司祭が今わたしたちに与えられた。イエスはわたしたちの苦しみを忘れてはおられなかった」この体験は、浦上キリシタンの苦しみ、涙をつなぎ合わせ、意味のあるものにしてくれたのではないでしょうか。そのことをだれよりもよく分かっていた浦上のキリシタンは、熱意に駆られて今村に飛んでいったのだと思います。100キロ近く歩いて、わたしも「苦労をすべて意味のあるものにつなぎ合わせるのはイエス・キリストしかいない」ということを学んで帰ってきたいと思います。

皆さんお一人お一人の人生も、何かでつなぎ合わされて一つにまとまるのだと思います。あなたの人生の喜びや悲しみをつなぎ合わせるものは何でしょうか。お金や出世やそのほかの優越感でしょうか。それらはいつかわたしにとって意味のないものになるのではないでしょうか。イエス・キリストこそ、わたしの人生を完成させるかけがえのない要石であることを確認しましょう。そして「完成させるためにやってきたイエス」を、人々に告げ知らせる勇気を、このミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼先進国の人々は、50人もの使用人に奉仕してもらって暮らしているようなものであると何かの記事を読んだことがある。たとえば台所の調理器具、蛇口をひねればすぐに出る水道、そんなことを取り上げただけでもかつては考えられなかった環境だと言える。
▼ガスコンロは火をおこす人がいつもいて、すぐに火が利用できるのと同じ。これで使用人1人。水道が完備されているのは、いつでも水を汲んで用意してくれる人がいるのと同じ。これで2人目の使用人。食材を切っているうちに炊飯器がご飯を炊きあげる。これで3人目。こうして数えると、本当に50人もの使用人に仕えてもらっていることになるかも知れない。
▼さて徒歩巡礼に行くが、いくつかの装備や道具を買った。18日(火)がすでに雨の予報になっているが、水は通さず、体の湿気は外に逃がす雨具を買った。今の雨具はここまで進歩しているのだなと感心した。
▼また、飲み水を素早く口に含み、歩き続けるために特殊なキャップの付いたボトルを持っていく。ありがたいことに、日頃からハーフマラソンなどで給水の大切さをよく知っている人から差し入れてもらった。最後の自主トレの日、このボトルを腰にセットして30キロ歩いた。30キロ歩けるのであれば、42.195キロも歩ける?
▼それと、これは当日使用するかまだ躊躇しているのだが、ノルディックスキーのポールのような物も買った。しかしこれは、使用すれば上り坂の時など電動アシストのような補助になってとても快適に歩けるのだが、はたしてこのような歩き方が「巡礼」にふさわしいかどうか、まだためらっている。少なくとも同僚司祭は使用しないので、抜け駆けのようでもあり、今回は難しいかも。
▼最後に、これは昔から使っていたのだが、おサイフケータイ機能。巡礼途中でコンビニに入ってトイレを借りるとき、まぁ飲み水か、ゼリー状の栄養補助食品などを買うことになると思うが、財布を取り出してまた収納するのはきっと面倒である。そんな時、「ピッ」とレジを済ませることができるのは非常にありがたい。ここも使用人が1人いるのと同じかも知れない。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===