年間第5主日(マタイ5:13-16)

今週は「わたしたちの持つ『塩』は社会に化学変化を起こす」とまとめたいと思います。中学校高校時代、わたしはにずっと疑問に思っていることがありました。「今勉強していることは、大人になっても使わないのに、なぜ勉強しなければならないのだろう」ということです。

教会の主任司祭になって、1千万円以上のお金を管理することも出て来ましたが、それでも連立方程式とか因数分解とか、予算決算を立てるにあたって必要ないといえば必要ありません。また外国人と会話することがなければ、英語もほとんど必要ないです。英語の弁論大会とか、聞いている生徒のほとんどが理解していないのにバカげている、とさえ思っていました。目標もない勉強は無意味だと思うことがありました。

ところが、48歳になろうとしている今、さまざまな体験を積む中で、どの分野の勉強も無駄ではないと分かりました。いつかハウステンボスに行くことがある中学生高校生に、一つの体験を紹介しておきます。

わたしがハウステンボスのあるお土産品店にいたときのことです。アジア系の観光客が「英語話せますか」と聞いてきて、「このカメラで、この店の様子をバックにわたしを撮影してほしい」とお願いされたのです。やりとりはすべて英語です。

そこでわたしは、「構いませんよ」と答えて、そのアジア系の外国人をカメラで撮影してあげました。この出来事の中には、3つのことが含まれています。1つは彼がわたしのことを「この人は英語が話せるだろう」と思ったことです。2つめは「この人は自分が英語で要求していることを、聞き取れるだろう」と考えたことです。最後は、「自分の求めを拒否しないで引き受けてくれそうだ」ということです。

外国人は、まったく頼めそうにない日本人には声を掛けないでしょう。少なくとも「話せそうだ」「聞き取りができそうだ」「要求に応じてくれそうだ」この3つをわたしに見て取ったので、声を掛けたのです。これは英語の問題だけでなく、数学の因数分解でもあります。この体験から最低限これだけは取り出せる、その技術も役に立ったわけです。

さらに今日、化学(かがく・ばけがく)についても話したいと思います。高校時代に、これこそ無駄の真骨頂だと思ったのが化学(かがく・ばけがく)でした。社会のどこに化学が存在するのか?わたしにはまったく理解できなかったからです。

けれども、司祭になって自炊してすぐに気づきました。料理は言わば化学です。釣りたての魚が、今日食べるのがおいしいか、明日まで待って食べたほうがおいしいか。化学変化がそこにはあるのです。調味料も化学変化を起こす魔法の道具です。たとえば塩は、料理に対してほんのわずか、ひとつまみに過ぎない量しか加えなくても、おいしさを引き立てるのです。1グラムの4分の1とかで、化学変化を起こすのです。

こんなことを考えるようになって、「あー、学校で勉強しなかったことが、今になって必要になるなんて」と後悔しています。教科書通りに必要になるとは限りませんが、数学も化学も物理も、わたしが遠ざけてきたものが身近なところで物事を考える役に立つのだなぁと思うと、学生時代何とまぁ無駄な過ごし方をしたのだろうと思うのです。

福音朗読では、「あなたがたは地の塩である」「あなたがたは世の光である」と言っています。わたしたちがこの世に対して「塩」であるなら、社会に対して「化学変化」を起こせるということになります。1グラムの何分の一、もしかしたら一万分の一であっても、わたしたちの行動は社会に化学変化を起こす力を持っているということです。

水は爆発しませんが、水を電気分解して発生する水素は爆発します。水素と結合している酸素も、物が発火するのに欠かせません。わたしたちカトリック信者は、二万数千人の上五島の人口の中で何分の一に過ぎないかも知れません。けれども、化学変化を起こすには十分な人数です。

日本の人口に対して、カトリック信者の数はそれこそ百分の一とか、それ以下かも知れません。けれども、わたしたちは地の塩であり、かならず、味を感じさせることはできるはずなのです。もっと言えば、日本人全体に化学変化を起こす力を十分持っているはずなのです。

その、化学変化を起こすための条件を、イエスは教えてくれています。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられようか。」(5・13)「塩気を常に保ち続けること」これが、対象となる物に対して化学変化を起こす条件だということです。

わたしたちカトリック信者が、カトリックでない人々に対して塩気を感じさせるとはどういうことでしょうか。何でもまかり通る世の中にあって、神はこのような生き方や振る舞いをお認めにならないと、きっぱり言うことのできる人々がそこにいるということです。

ほかにも、「いのちは大切である」と知っていても、日本では「いのちの始まりから大切だ」とは言いません。日本の法律も、「いのちの始まりからいのちに手をかけてはいけない」と書かれていません。そんな日本にあって、「いのちはその始まりから大切だ。神がいのちを授けてくださったからだ」ときっぱりと言うことのできる人々がいる。それはカトリック信徒でない日本の人々に、塩味を感じさせることなのです。

わたしたちがカトリック信者としてイエス・キリストの望みに生活で応えようとするなら、もっと大きなことが起こるかも知れません。カトリックでない人の中に、「何でもまかり通るわけではないのだな」とか「いのちは、始まりの瞬間から大切なのだな」という実感が湧いてくるようになれば、それはわたしたちの働きが大きな化学変化を起こしたことになるのです。

化学工場の爆発はとてつもない被害を及ぼしますが、わたしたちカトリック信者が起こす化学変化、爆発は、とてつもない良い影響を及ぼすのです。わたしたちに与えられている「イエス・キリスト」という大切な塩を用いて、社会に変化を与える人となりましょう。そのための恵みを、このミサの中で祈りましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼どこでもそのようなことは起こっているのかも知れないが、病院に紹介状を持って診察をしてもらいに行ったら、1時間半くらい待たされて、3分かからないで診察が終わった。3分かからないのなら、先にわたしのために3分先生が時間を割いてくれれば済むことではないのか。そう思うが、順番なのだから仕方がないのだろう。
▼1時間ちょっと過ぎた頃に眠くなり、うとうと眠っていた。すると女性の看護師が「ちょっとすみません。お名前を聞かせてください」と言ってわたしを起こした。わたしは名前を呼ばれているのに眠っていたのかと思ったのだが、どうもそうではなかったらしい。
▼だいたい、わたしは指示された番号の部屋の前に座っているのに、違う番号の部屋から看護師がわたしのところに来て起こすというのも理解に苦しむ。まぁ若い人がほとんど受診していないので、見渡してわたしがいたから決めつけてきたのかも知れない。
▼診察の結果はだいたい聞かされていた通りで、コレステロールの数値を下げる薬と、尿酸値を下げる薬を飲みなさいということになった。これでとうとう、病人である。薬を飲み続ける、薬を持って回る、どこででも薬を取り出す。これまでわたしが否定していたグループに、わたしも加わることになった。よろしくお願いします。
▼月に一度開かれる「食生活改善」の集会に参加した。体に優しい、カロリー控えめの、工夫を凝らした食事をいただいてきた。だが周囲を取り囲む高齢者たちは、「わたしはこれは食べないので、神父さん食べてください」と言って、一品譲ってくれる。結局、わたしはあれもこれも人の分まで食べて、カロリー控えめがカロリー過多である。
▼今月の「食事改善の集い」は最後に豆まきが計画されていた。「年男」という理由でわたしが豆まきをすることになった。それでわたしは、「ババは内、ジジも内」と言いながら豆をまいた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===