主の奉献(ルカ2:22-40)

主の奉献の祝日を迎えました。今週の福音を「主の奉献に倣ってわたしたち自身を奉献する」とまとめたいと思います。イエスの神殿奉献から、わたしたち自身に求められる態度を拾うことにしましょう。

今回この説教を準備していて、「主の奉献の説教って毎年準備していたかなぁ」と思って調べていたら、説明が「カトリック中央協議会ホームページ」に掲載されていました。次のようにあります。

「主の奉献の祝日は、イエスが生まれてから40日後に律法の定めに従って両親によって神殿でささげられたことを記念します(ルカ2・22-40、レビ12章参照)。これに基づいて、主の降誕の祭日(12月25日)から40日目の2月2日に祝われています。(以下省略)」納得できました。2月2日と日曜日が重なった年だけ説教を書いていたわけです。

ちなみに11世紀からは、この日にろうそくの祝福が加えられたとあります。今年は忘れましたが、来年覚えていたら、「主の奉献の日に、合わせてろうそくの祝福をします」と呼びかけたいと思います。

昨年末に生活習慣病予防検診を受けましたが、その結果が最近郵送されてきました。病気を3つもらいました。「肝機能障害」「高脂血症」「高尿酸血症」です。精密検査に行くようにと紹介状も添えられていました。「あーしょうかい」と思いました。今回の病気の原因は、食べ過ぎと運動不足です。原因は明白ですから、課題を克服したいです。

歩くということでは、以前よりもはるかに歩くようになりました。「あそこは歩いて行ける場所ではない」と思っていたような場所にも、歩いて往復するようになりました。先日は、浜串教会から佐野原教会まで歩いて往復しました。途中のエネルギー補給のために「かんころ餅」を持って歩き、20kmちょっとでしたが、4時間で往復しました。

福音の学びを得ることにしましょう。わたしが注目したのは、「イエスの両親がモーセの律法に定められたことを果たすために行動し、その中でまったく予想もしなかった光景を目にした」ということです。

ヨセフとマリアは信仰篤い人でしたので、律法で定められていることを忠実に果たそうと神殿に赴いたのでした。律法に定められた通りにわが子を主に献げ、いけにえとして動物を献げました。定められたことを忠実に果たした2人にとって、予想通りに出来事は終わるはずでした。

ところが、ヨセフとマリアが抱いて連れてきたイエスをシメオンという預言者が腕に抱き、予想もできない言葉で神をたたえるのを聞いたのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(2・29-32)

預言者シメオンは「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」(2・25-26)そういう人物です。

彼が「イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」のは、イスラエルが救われるのを待ち望んでいたということでしょう。彼もまた、律法の定めを忠実に果たす中で救いを待ち望んでいたのですが、両親に抱かれたイエスと出会い、まったく違う道を知ったのです。「律法によって救われる道」ではなく、「イエスによって救われる道」です。

シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」とあります。律法の定めに従ってわが子を神殿に奉献する親子はこれまで数え切れないほどシメオンの前を通り過ぎたことでしょう。けれどもそうした親子によってはシメオンが慰めを得ることはなかったのです。

ところが聖家族がやってきたとき、「まことの救い」を見たのです。彼には聖霊がとどまっていました。両親の腕に抱きかかえられているイエスによってイスラエルの民は救われる。イスラエルの民だけでなく、異邦人を含む万民が、イエスによって救われると確信したのです。

エスの両親、マリアとヨセフの驚きについても考えてみましょう。両親は、幼子についてのシメオンの言葉に驚きました。2人は幼子に、律法の定めを果たしに神殿に来ました。彼らも、律法によって人は救われるという「律法によって救われる道」しか知らなかったからです。

けれどもシメオンの言葉によって、「わが子イエスによって救われる道」があることを知ったのです。しかも、「イエスによって救われる道」しか、シメオンを慰めることはできなかったことを知ったのです。

わたしたちも、今日の主の奉献を通して、慰め多い人生について考える必要があります。わたしたちに与えられている掟はさまざまありますが、「掟によって救われる道」だけを考えていると、シメオンのように慰められる日をいつまでもいつまでも待たなければなりません。

そうではなく、「イエスによって救われる道」をわたしたちが受け入れるなら、わたしたちの手に慰め多い人生が与えられることになります。「イエスによって救われる道」は、時としてゆるせない人をゆるしたり、愛せない人を愛したりすることが必要になります。

もちろん、「イエスによって救われる道」を固く信じていても、わたしたちの確信を揺さぶろうとする試練は何度も訪れるでしょう。シメオンも「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(2・34)と預言しているからです。

それでも、わたしたちは「イエスによって救われる道」を選ぶべきです。イエスはわたしたちの希望を裏切らないからです。イエスはわたしたちのために、ご自身によって救われる道を完成させようと神殿でみずからをいけにえになさったのです。

「イエスによって救われる道」をまっすぐに見つめて信仰生活を続けましょう。掟に縛られないイエスの愛に倣って生きていきましょう。この生き方が、神に対するわたしたちの奉献生活なのだと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼最近あっと驚くことがあった。日曜日のミサに来ている人の中で、わたしが今村巡礼に行くことを知らない人がいたのである。2月の中旬に長い行程を3日かけて歩くのだと繰り返し話していたと思うが、「今村ってどこですか?」「いつ今村に行くのですか?」「そんなに遠くまで大丈夫ですか?」と聞かれた。ビックリしたのはわたしの方で、「大丈夫ですか?」と聞きたいくらいだった。
▼「歩くのは健康のためではなく、話題作りだ。」今でもそう思っているが、健康になれるならそれに越したことはない。「肝機能障害」も、脂肪肝ということだろうから、歩き続ければ内臓脂肪もいつかは少なくなり、肝臓の機能も回復するだろう。
▼「高脂血症」も、どうせ太り過ぎから来ているのだろう。過食気味だった食事の量を年齢相応に減らすことと、これまた歩き続ければ、サラサラの血になってくれると思う。問題は「高尿酸血症」だ。おいしいものを食べるからそうなると言われるが、おいしいものを食べるのはやはり楽しい。この誘惑とどう向き合うかが問題だ。
▼おいしいものが並ぶ。一通り食べたい。だが、その反動は必ず出る。悩ましい。これからも歩き続けると仮定して、歩いている間に考えてみよう。本当に自分の一生を悔いのないものにするために、何を選び、何を控えるか。何を優先させ、何を放棄するか。
▼これから巡礼が始まる2月17日までは、巡礼を優先させてあらゆることの優先度を下げなければならない。幸いに、巡礼が終われば、次第に暖かい春に近づいていく。そうするとボートでの釣りも再開できる。ボートでの釣りが運動になるか、と言われるとはなはだ疑問だが、わたしのストレス発散にはこれ以上のものはない。
▼3月中旬には黙想会が控えている。黙想会の説教師がもし、釣りをなさるなら、ボートでカサゴ釣りに連れて行ってあげよう。説教師を連れて行ってのボート釣りは「接待」であり「公務」である・・・ということにしよう。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===