年間第3主日(マタイ4:12-23)

年間第3主日に入りました。灰の水曜日から始まる四旬節までの、短い年間の期間です。今週の福音朗読から、「イエスと出会うために、あなたは何をしますか」ということを考えてみたいと思います。

皆さんは方向感覚に自身はおありでしょうか。わたしは方向音痴のようで、全く自信がありません。高校卒業してすぐに佐世保の親戚の家に下宿し、自動車学校に通いましたが、自動車学校の入学手続きをしに行った初日に迷子になり、真夜中に親戚のおじさんおばさんに見つけてもらったことがありました。大変心配をかけました。

苦い経験から学んだことがあります。待ち合わせをするとき、相手とうまく合流できないこともあるでしょう。合流できないのは2つの場合が考えられます。その1つ、自分が場所を指定して相手がたどり着けない場合、相手の人に「動かずに待っていてください」とお願いします。

反対に、相手が場所を指定していて、わたしがそこにたどり着けないときは、わたしのいる場所を伝えてわたしが動かないことにします。こうすれば、時間はかかるかもしれませんが、きっと迷子の側は見つけてもらって、合流できるはずです。

さてイエスは、イスラエル北部のガリラヤからご自分の活動を開始されました。今日の朗読によると、ガリラヤ周辺の町は、「暗闇」とか「死の陰の地」と表現され、そこに住む人々もマイナスのイメージで受け止められていたようです。

そこへ、イエスが光として現れてくださいました。光であるイエスと出会うことで、「暗闇に住む民」「死の陰の地に住む者」に光が射し込みました。イエスと出会うことがなければ、この地の民にいつまでも光は射し込まなかったでしょう。預言も実現しないままになります。

ですから、イエスと出会うことが、すべての始まりでした。それは、わたしたちも同じことなのだと思います。そして、イエスと出会うために、わたしたちは何かを選ばなければならないのです。この際、初めに考えた日常の体験が役に立つと思います。イエスと出会うために、わたしたちが行動に打って出るか、わたしたちの方はじっとしてイエスに見つけ出してもらうか、どちらかを選ぶということです。

宣教開始を語る今日の朗読箇所は、イエスが積極的に動いて回る様子が描かれています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4・17)と声を上げ、四人の漁師に声をかけるのもイエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられましたし、「イエスガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4・23)と結んでいます。積極的に動いて回って、見つけてもらわなければならない人々を見つけ出しているのです。

一方で、イエスはじっと待っていることもあります。サマリアの女が井戸に水を汲みに来て、イエスに声をかけられ、イエスとの出会いを手にした話(ヨハネによる福音書第4章)を、皆さんご存じかもしれません。この女性は、井戸に佇んでいるイエスに出会って、いのちの水をいただきました。

また、黙示録では「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(黙3・20)とあります。イエスはあるときは戸口に立って、心の扉を開いてくれるのをずっと待っています。

または、イエスが十字架にかけられ、いのちをささげる場面も、ご自身は全く動くことなく、すべての人を引き寄せて救いにあずからせようとします。百人隊長はこの十字架上のイエスの姿を見て、「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27・54)と言い残しました。

エスは、わたしたちと出会うために、あらゆることをなさいます。ガリラヤで伝道を始め、四人の漁師を弟子にして、おびただしい病人をいやしました。あるときはこのように動き回ってわたしたちと出会おうとします。またあるときは、わたしたちが通るであろう道の途中に立って、じっとそのときを待ち、出会ってくださいます。

エスはあらゆる手段を尽くしてくださいますが、わたしたちはどうでしょうか。イエスに出会うために、「動いてみよう」と考えるでしょうか。あるいは「じっと待とう」と考えるでしょうか。

人がイエスと出会うためにどちらを選ぶかは、その人の向き不向きや、置かれた生活に左右されます。わたしはどんなに準備をしても迷子になったり失敗するので、じっと待った方がイエスに出会えるかもしれないと思っています。じっと待っているといっても、何もしないのではなく、自分の生活を続けながら、心に響く声に深く耳を傾けて、語りかける声を拾うと言ったらよいでしょうか。

ある人は、積極的に打って出ることでイエスと出会えるかもしれません。大胆に、イエスのことを人々に話して聞かせる中で、イエスがそばにいてくれて、自分を力づけたり、励ましたりしてくれるのを感じる場面があるかもしれません。こんな人は、動き出すことでイエスと出会える人だと思います。

どちらの場合も、イエスと出会うことは何より大切なことになります。イエスと出会うことで、わたしたちは光に触れ、光を感じ、光に照らされるからです。イエスという光がわたしたちに射し込むことで、わたしたちは照らされて生きる光の子になれます。

エスはいよいよ、人々と出会い、救いを告げ知らせる宣教に打って出ました。わたしたちも自分にできる行動に打って出ましょう。心静かに待つことを選んだ人は、毎日の生活を重ねながら、「主よ来て語りかけてください」と願いましょう。活動の場に飛び込もうと決めた人は、そこで待っておられるイエスと出会わせてくださいと願いましょう。わたしたちの生活はいつも、イエスと出会うことで輝きを増すのです。

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ちょっとひとやすみ
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▼うーん、パソコンでしくじった(泣)今年初めからパソコンの動作が不安定になっていて、困っていた。症状としては、パソコンを立ち上げてWindowsのロゴが表示された状態で固まってしまい、全く動かないという状況だった。
▼まぁ、たまにそういうことはあるので、通常の手順でリカバリーを試みた。電源ボタンを長押しして強制的にパソコンの電源を落とし、再度電源を入れる。すると「異常終了をしているから(1)修復するか(2)通常起動させるか」という指示が出る。
▼ここで(1)の修復を選ぶと、Windowsのロゴの表示までたどり着かずに真っ暗な画面のまま固まってしまう。ちなみに(2)を選択すると、たまにうまく起動することもあるが、Windowsのロゴで固まることが多い。
▼そうなると、別の方法を探ることになる。Windowsロゴが表示される前にF8ボタンを押すと、さらに条件を絞ってパソコンが起動できる。「(3)セーフモードでの立ち上げ(4)セーフモードとネットワークの立ち上げ」
▼ここで(3)を選択して、いったんパソコンを終了し、再度立ち上げると問題が解決していることもある。だが(3)も(4)も試して再度立ち上げても、パソコンが固まるようになった。
▼ここで、冷静さを失った。ネット上で十分情報を集めてから作業をするべきだったのだが、次のような結論を勝手に出した。「Windows7に見切りをつけて、Windows8にアップグレードしよう。」勝手にOSのせいにして、お金で解決しようとしたのである。
▼十分な予備知識なしに実行した付けがすぐに返ってきた。すんなりWindows8.1にアップグレードできたのだが、これまで使用していたソフトが一切見つからない。どういうことだ?唖然としていろいろネットで調べたら、どうやら「データ」は引き継いでも「ソフト」は引き継がないらしい。
▼パソコンは安定して動くようになった。だが代償として、かなりのソフトが葬られてしまった。パソコン内で動くソフトもそうだが、メールソフトとメールソフトが保管していたアドレス帳も消え去った。今後は相手からいったんメールが届かない限り、もはや誰とも連絡は取れない。ダメ押しになったのは、同じマイクロソフトのくせに、MSオフィスまで使えなくしてしまわれた。仲間まで見捨てる。さすがというか、呆れてしまった。
▼調べてあとで分かったのだが、OSのアップグレードのときもいわゆる「引っ越しソフト」は役に立つらしい。体験のない方のために、「引っ越しソフト」は次のような場合に使うソフトである。(a)既にお持ちのパソコンから新しいパソコンへの移行(b)同じパソコン上で旧OSからアップグレードした新OSへの移行(c)取り外したハードディスクから別のパソコンへ移行。
▼今回は(b)に該当する。上記の「引っ越しソフト」を前もって手に入れておけば、何も問題なかったはずだった。失ったソフト(動かなくなったソフト)は、実物があるものは再インストールすれば済むが、無いものは・・・無料の代替ソフトか、新規購入しかない。
▼今まで通りの環境に戻すのに、パソコンを買い直すくらいの費用がこれからかかりそうである。特にホームページビルダーはパッケージソフトを買っておくべきだった。今後2週間はホームページの更新はできなくなる。バカなことをした(号泣)

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===