年間第2主日(ヨハネ1:29-34)

主の洗礼の祝日を終えると、教会の暦はしばらく年間の主日に移ります。教会の暦の仕組み、なかなか把握するのは難しいと思いますが、暦の始まりは待降節で、御降誕とそれに伴う祝祭日、年間を少し挟んで四旬節、聖週間があって復活節、聖霊降臨以降の一連の祝日、そして王であるキリストまで続く年間の季節と移っていきます。

季節を感じながら生活すると、生活にリズムができます。一度覚えてみることをお勧めします。参考のために、典礼暦を図で示したプリントを少し置いてますので、興味のある方は持ち帰ってください。

ただ今、黙想会の説教師を交渉しているところです。若手の神父さまに日程を2通り示して相談しています。まずは主任神父さまに相談をと思って、お願いのFAXを10日前に送ってみたのですが、うまく連絡が届いていなかったようでまだはっきりした返事をもらえていません。これ以上遅くなってから他の神父さまにお願いするのは難しいので、もし交渉が上手くいかなかったら、中田神父が自前で黙想会をすることになります。違う神父さまの話が聞きたいでしょうから、自前でするのは避けたいと思っています。

そんなことを考え考え説教を準備していると、ちょうどお願いしていた教会の主任神父さまから電話が入りまして、「助任司祭を説教師に派遣するのでよろしく」ということでした。これで心配事が一つ減りました。日程は3月中旬になると思います。

福音の学びに入りましょう。今週の学びを短くまとめると、「『見よ』と証しされた方に聞き従う」ということになります。当時洗礼者ヨハネの証しを受け入れた群衆がいたように、わたしたちもヨハネの証しした方に向きを合わせて、聞き従うのです。

洗礼者ヨハネは、たった一つの使命のために命を削っていました。それは、「神の子、イエス・キリスト」の到来に人々を準備させるということでした。水で洗礼を授けていたのも、「聖霊によって洗礼を授ける人」(1・33)を指し示すためです。

そして、その時がやって来ました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(1・29)洗礼者ヨハネが指し示すお方はイエスただ一人です。その方は自分よりまさっている方、自分よりも先におられた方です。「神の小羊」という言い方は、わたしたちのふだんの生活では使わない言葉ですが、三つの意味合いが込められています。

一つは、黙示録にある(7・17、7・14)終わりの日にこの世を裁く小羊という意味、一つは旧約のイザヤ書53章で羊の姿で描かれる「苦しむ僕」で、人間の救いのために苦しみを受ける方。もう一つは、過越祭にほふられる羊の意味で、来たるべき方もほふられる羊となる方です。

このような姿を合わせ持つ方が、目の前に現れました。そこで洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。ところで洗礼者ヨハネはイエスを「この方こそ神の子であると証しした」(1・34)わけですが、ヨハネが人々に「見よ」と言い、「この方こそ神の子である」と証ししたのはなぜでしょうか。

もちろん、人々の心をイエスに向けさせ、イエスの声に聞き従うように促すためです。わたしたちにも、洗礼者ヨハネの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」という声が、「この方こそ神の子であると証しした」という声が、響いているでしょうか。

もし、今日の出来事を自分にも向けられていると受け止めて、洗礼者ヨハネの「見よ」という声、「この方こそ神の子である」という声に耳を傾けているなら、今の社会にあってどのようにこの招きに答えたらよいだろうかと考える必要があります。

なぜなら、わたしたちは「見よ」というその方を見ることができませんし、「この方こそ神の子である」というその方とじかに接することもできません。何かの形で、似たような体験を積む必要があります。

わたしには、自分に向けられた声で今も思い出される声がいくつかあります。以前もそのような話をしたことがあるかも知れません。その一つに、滑石教会の助任をしていたときの体験があります。滑石教会は、ふくれあがった信徒数に対して教会堂が手狭になり、信徒数に見合った教会堂を建てる必要が生じていました。

わたしが奉仕していた時代にも真剣にそのことが話し合われていましたが、実現したのはそれから10年経ってからでした。当時の主任神父さまは口酸っぱく、次のようにわたしに話していました。「教会はどうやって建てるか分かるか?教会は、祈らなければ建たないんだぞ。」

実際には方言丸出しだったのですが、その声は今でもわたしの中で響いています。あの時からすでに16年が経過していますが、当時の主任神父さまの声は、今もはっきりと聞こえ、わたしに何かを実行させようとするときに聞こえてくるのです。「その計画のために、あなたはどれだけ祈っているか?またその教会の信徒はどれだけ祈っているか?」と。

ですから、わたしたちが洗礼者ヨハネの「見よ」と指さした場所はどこだろうかと真剣に考えるならば、その指さした場所にきっと気がつくと思います。その場所にはイエス・キリストがおられ、そこで「わたしについてきなさい」という招きを見つけるのではないでしょうか。

たとえばそれは、黙想会の機会かも知れません。黙想会に参加することで、「見よ」という方向をしっかり示していただけるかも知れません。わたしでなくても、家族が気付いて、何をすればよいのか理解するかも知れません。すると、今の時代にもヨハネの声は響いていて、イエス・キリストの方向を向くことができるし、イエスに聞き従うことができるということす。

洗礼者ヨハネが指し示した方はただ一人、イエス・キリストです。わたしたちが聞き従うべきも、イエス・キリストただ一人です。この基準に生活を合わせていきましょう。そのために必要な知恵を、ミサの中で願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼成人の日、毎年恒例の「誓願式」。女性のどんなイベントよりも心洗われる儀式だと思う。正確に記憶していないが、誓願式の後の会食で近くに座った大先輩が、「シスターの貞潔誓願は、匂い立つ清さがある」と言っておられた。たしかに、終生誓願を宣立する修道女を清さが包んでいると思った。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===