主の公現(マタイ2:1-12)

主の公現の祭日を迎えました。馬小屋をご覧ください。占星術の学者たちが幼子の元に到着しています。子供たち、馬小屋に学者たちが置かれているのを見たら、「イエスさまがすべての人にご自分を現す日がやってきた」と知って欲しいと思います。

今週の説教の要点は、「イエスを指し示す星は、すべての人に輝いている」というものです。これからわたしの主日の説教は要点を先に示してから始めたいと思います。

徒歩巡礼に向けて、今年の初練習をこなしてきました。昨年末、浜串から神ノ浦の往復に続き、鯛ノ浦港から有川港までを往復してみたのですが、今回さらに距離を伸ばして、「浜串入り口」バス停から、「奈良尾港ターミナル」までを往復しました。距離は18km、かなり疲れました。

何人か顔見知りの人と会いました。まず子供連れの家族に会いました。次に奈良尾港を折り返し、奈良尾病院前で20代のギャル4人組に会いました。実は彼女たちの前でしょうもない嘘をついてしまいました。ギャルに会ったときは5時までに帰り着こうという計画がずれ込み、ちょっとだけ走って時間を稼ごうとしていた矢先だったのです。

4人組のうちの1人は浜串教会の目の前に住んでいる人でした。「神父さま。浜串から走ってきたんですか?」と言われ、そこでつい「うん」と言ってしまったのです。本当に浜串から走ってきていたら、折り返せるはずがありません。それなのに、ギャルの手前嘘を言ったのです。

バカだなぁと思いつつ、彼女たちの姿が完全に見えなくなるまでしばらく走り続けました。そのせいで、国道に出る頃には完全に息切れして、座り込んでしまいました。正直に「歩いてきたんだよ」と言って、ペースを乱さずに歩き続けたらどれだけ楽だったでしょう。

復路、高井旅でシスターに会いました。名前は伏せておきますが、そのシスターが「送りましょうか?」と誘ってくるのです。乗りたいのは山山ですが、誘惑に負けたら訓練が台無しになります。心を鬼にして申し出を辞退し、何とか出発地点のバス停まで帰り着きました。

あの日、わたしの心の中には、わたしを動かすいくつもの動機が生まれていました。「奈良尾まで歩いて往復します」と宣言したこと。「浜串から走ってきたんだ」と調子に乗ってしまったこと。「訓練ですから」と申し出を断ったこと。こうした心の支えがあったから、18kmの道のりを歩き通せたのだと思います。

18kmもの距離を何となく歩くというのは不可能です。少なくともわたしはそう思います。何か、自分を支える目標がなければ、自分を鼓舞する動機がなければ、足は前に進まないのではないでしょうか。

今回わたしの体験は、占星術の学者たちが東の国からはるばるやって来てイエスを礼拝したことを黙想するのに役立ちました。彼らにとってユダヤの国までの旅を決断させる重要な意味を持つ星が現れた。だから占星術の学者たちははるばる「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(2・2)を拝みに来たのです。

危険を伴い、それ相応の費用を負担して、しかも非常に高価な贈り物を携えて旅をするのですから、それに見合う重大な動機が必要です。占星術の学者たちは、現れた星が、どんな困難を押してでもそれ以上に価値がある、そして贈り物を届けに行く価値があると理解しました。

星は、ユダヤに入ってヘロデ王にあいさつに行くと一旦見えなくなっています。しかしまたしばらくして、「当方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」(2・9)とあります。それは、自分の人生の旅を導いてくれる星に出会い、いったんはその星を見失うことがあっても、再び星は現れて、人生の最後まで導いてくれる。そのことを教える出来事となりました。

占星術の学者たちは、幼子イエスに黄金、乳香、没薬を贈り物として献げます。彼らの人生を照らす偉大な星に出会って、どんなに高価な贈り物を献げても惜しくないと考えたからです。また彼らは、ヘロデのもとへは立ち寄らず、「別の道を通って」(2・12)自分たちの国へ帰って行きました。もはやヘロデは自分の人生に必要な人ではなくなっていたのです。自分の人生のすべてを照らす星に出会ったので、ヘロデに別れを告げ、救い主に照らされて生きるという別の人生を歩み始めました。

占星術の学者たちは、わたしたちにさまざまなことを教えてくれます。王としてお生まれになった方の星は、わたしたち皆に現れたのです。わたしたちの人生全体を照らす価値ある星です。わたしたちはある時期その星を見失うかも知れません。けれども再び人生を照らす星を探し求めるなら、星は人生の歩みに先立ち、イエス・キリストを土台として生きるように指し示してくれるのです。

人生を最後の最後まで照らし、導いてくれる星に出会った人は、道を逸れる必要を感じません。経済優先の社会、国の秘密が個人よりも優先されると思わせる社会、いざとなったら武器を手にして自衛すると声高に主張している今の日本社会にあって、別の道を通って歩くカトリック信者がいることを、わたしたちは生き方で示せると思っています。

巡礼のためのトレーニングは、今のところいろんな人の声に後押しされていますが、本番では誰も知っている人とは会いません。大浦教会から今村教会までの巡礼の道を照らすのは、最後はやはりイエス・キリストという星だと思います。もちろん練習中も忘れないでいたいと思います。

「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(2・12)占星術の学者たちはそれぞれ自分たちの国、自分たちの生活に帰りました。自分たちのもとの生活に戻っても、星は輝き続けています。わたしたちはどうでしょうか。ミサに集い、星の輝きを確かめて生活に帰りますが、星は輝き続けているでしょうか。その星があなたの生活を照らし、導いてくれているでしょうか。またヘロデのもとへ戻ったりはしていないでしょうか。まっすぐに、星が照らす道を歩いて行きたいと思います。

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ちょっとひとやすみ
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▼年が改まり、早速今年一年どんな年になるのだろうかと考える。去年を漢字一字で表すと「輪」ということだそうだが、今年はどんな漢字が当てはまる年になるのだろうか。言った者勝ちということで早くも予想すると、「歌」というのはどうだろうか。
▼別に根拠も何も無いが、歌を歌いたくなるような晴れやかな一年であって欲しいと思っている。政府は国民と少しも向き合わず、「憲法改正」「秘密保護法制定」「消費税増税」など、国民がガッカリするもののオンパレードだ。その中でも「秘密保護法」は、あれだけ多くの反対集会が開かれたのに、なぜ強行するのだろうか。
▼今のところ、軽やかに歌を歌える状況は見えてこない。だからこそ、歌って喜びを表せる社会にしたい。歌わない人も歌う。そんな社会に変わったなら、どんなにすばらしいことだろう。わたしもふだん、歌ったりはしない一人だ。
▼去年は、福見教会百周年を記念する歌を作詞した。今も、福見教会で折々に歌ってくれる。気恥ずかしい思いもあるが、歌い継がれていくかも知れないと思うと、誇らしい思いもある。なかなか引き継がれていくものをかたちにするのは難しいから、それはそれで大きな仕事をなし遂げたと思う。
▼今年、歌を歌うとしたら、どんな歌を歌うだろうか。「喜びの歌」か。「悲しみの歌」か。「感謝の歌」か「賛美の歌」か。人から借りた歌ではなくて、わたしの心の中から、腹の底からわき出てくる歌を、今年歌ってみたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===