主の降誕(日中)(ヨハネ1:1-18)

あらためて主の降誕おめでとうございます。夜半のミサでわたしたちは、神が不可能を可能にして人類の救いのために御子をお遣わしになったことを黙想しました。今日、ヨハネ福音書が語る神の救いのご計画を黙想することにしましょう。

ヨハネ福音書は、神である御言葉の働きについて語ります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(1・1)「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。」(1・3)一つの点に注目してみました。それは、「肉となった言(ことば)に耳を傾ける」ということです。

「耳を傾ける。」これまでの司祭生活の中で、わたしには耳に残っている言葉、今でも忘れない言葉がいくつかあります。これまで赴任した教会でいろいろな人と出会い、いろいろなことを言われましたが、中でも「貴重な意見だったなぁ」と振り返る言葉があります。

初めて赴任した教会でのことでした。生意気なことを言っていた時期だったと思います。一度だけ、主任司祭にお叱りを受けたことがありました。「お前なぁ、60歳にならないと言うべきでない言葉もあるんだぞ」と言われました。ある奉仕のグループに言った無責任な言葉を、これは不適切であると叱られたのでした。

また、初めて主任司祭になった小教区で、正月に男性信徒が司祭館に訪ねてきました。玄関で座り込みましたから、しこたまお酒を飲んでいたのでしょう。その人から「お前はこの教会の信者一人一人の声を聞いてみようと思ったことがあるか」と言われ、わたしは「全員の声を聞くのは難しい。全世帯、家庭訪問して回るわけにはいかないから」と答えたのです。すると「全世帯、一軒一軒訪ねたら、すべての信者の声が聞けるじゃないか」と言い返されたのです。今でもその言葉は、わたしの中で引っかかっています。

言葉は、だれかが耳を澄まして聞いたときに、大きな働きをすることがあります。だれも聞いてくれなければ、言葉は通り過ぎ、消え去っていくでしょう。ところが、だれかが語られる言葉に真剣に耳を傾けるなら、一つの言葉が何十人、何百人を動かし、時には世界を動かし歴史を変えたりするのです。

今日の福音朗読は、おいでになった御子、世の救い主を「言(ことば)」という表し方で示しています。すると、神の言(ことば)がわたしたちに何を期待しているかを知るためには、肉となった言(ことば)に、真剣に耳を傾けることが必要ではないでしょうか。

しかしながら、人間は弱さを持った生き物なので、自分が聞きたくないことについては耳を塞ぐことがあります。その人のために必要なことを言っていても、聞き入れたくないので耳を貸さず、聞こうとしないのです。その人の健康を思って言っている言葉、その人の将来を思って言っている言葉であっても、それを聞きたくないと思って拒むことがあるのです。

神は御子を、言(ことば)としてお遣わしになりました。そして言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られました。御子はすべての人を造り上げ、すべての人を導く言葉をもっておられます。今は幼子として、わたしたちの間に宿っておられます。わたしたちは真剣に、また謙虚に耳を傾ける必要があるのです。

肉となった言(ことば)、幼子イエスの前に、もう一度近づきましょう。一人ひとりに必要な声を聞き取るために、静かに耳を傾けましょう。自分さえよければとか、独りよがりな生き方をして、さまざまな雑音をため込んでいるかも知れません。

それら雑音を一切追い出して、肉となった言(ことば)の語り掛けに自分を従わせましょう。謙虚に耳を傾ける人に与えられる報いは次の通りです。「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」(1・12)今日一日、肉となった言(ことば)の声にひたることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(創世記2・18)主の降誕(日中)の説教案を書きながら、最も説教のメッセージに耳を傾ける必要があるのは自分自身だという反省を持った。26日(木)に「生活習慣病検診」というのを受けるのだが、ここ数年この検診を受けて、言われることはだいたい予想が付いている。
▼「コレステロール値が高い」「体重を落としなさい」「軽めの運動を続けなさい」「食事を年齢相応に減らしなさい」等々。だから検診に行っても行かなくても同じなのだが、ここで踏ん張らなければならない。「同じかも知れないが、真剣に耳を傾けなければならない。」
▼たぶん、検査項目のいくつかに引っかかり、また来年になれば保健指導員から呼び出されて小言を言われ、「生活指導ですか。はいはい分かりました。やりますやります」と返事をして半年近く改善に取り組み、たまに努力が実ったら保健指導員に褒められたりして指導期間をやり過ごす。
▼だが、来年また検診を受けると、同じような項目に引っかかり、また同じことがその先に待っている。無限に同じことを繰り返すのだが、「でもそれでも・・・」謙虚に耳を傾けなければならない。
▼しかし、保健指導員は「彼に合う助ける者」なのだろうか。わたしの生活習慣病検診を担当する医師は、「彼に合う助ける者」なのだろうか。いつも「了解了解。真面目に聞いてますよ」と調子を合わせるが、現状維持が精一杯である。助けてもらっているのだろうか。
▼多分、助けてもらっているのだろう。そう思って今年もできるだけ耳を澄まして話を聞いてくるつもりである。健康を維持したくないわけではないし、わざわざ病気になりたいわけでもない。だから真剣に聞こうと思っている。ただ現実は、同じ過ちを繰り返しているのである。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===