聖家族(マタイ2:13-15,19-23)

最近浦桑で買い物をしていた時、鯛ノ浦で暮らすご婦人に「神父さま久しぶり」と声をかけられました。神学生だったときからわたしを知っている人なのですが、わたしを見つけてつい声をかけたくなったそうです。

その人が続けてこんなことを言いました。「お父さん亡くなられてからもう4年?5年かな?神父さんのお父さんが亡くなって思うんだけど、よくまぁお父さんに似たもんだなぁとつくづく思うわけ。そう思ったことありませんか?」わたしも似ているんだろうなぁとは思いますが、そこまで気にしたことはありませんでした。

「お父さんがいた頃は、似ているとは思っても、やはりお父さんはお父さん、神父さんは神父さんだと思ってたわ。でもお父さんが亡くなってみると、まるでお父さんが道を歩いているみたいに神父さん歩いているし、神父さんのしぐさがまるでお父さんがそこにいるように見えるのよ。よくまぁこんなに似たものだと、ほとほと感心してね。」そう言ってその人とはその場を別れました。今となっては思い出すことができない父の面影を、このご婦人との会話で思い出すことができました。

さて聖家族の祝日を迎えました。聖ヨセフに焦点を当てて、今年最後の主日の学びを得ましょう。ヨセフはイエスの幼少期に決定的な役割を果たしたはずですが、あらためて福音書を読み返して、一切ヨセフの言葉が残されていないことに驚きました。本当に、どこにもないのです。

今週の福音朗読から振り返ると、主の天使が夢でヨセフに現れ、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」(2・14-15)となっています。「さあ急いで行こう」といった言葉すら、見つけることができません。

再びエジプトからイスラエルの地に行くときも、「ヨセフは起きて、幼子とその母を連れて、イスラエルの地へ帰って来た」(2・21)となっていますが、ここにもヨセフの言葉は見つかりません。「アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。」(2・22)彼の恐れや不安を伺わせる言葉も見当たりません。

いちばん不思議に思うのは、12歳になったイエスを伴ってエルサレム神殿に礼拝に行ったあと、両親がイエスを見失い、それから3日間かけて神殿に引き返し、イエスを見つけたときです。マリアはその時こう言っています。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」(ルカ2・48)中田神父の家庭でしたら、父親のカミナリが落ち、平手が飛んでいたでしょう。この場面ですら、ヨセフの言葉を見つけることができないのです。

こうなると、「ヨセフはどんな人柄だったのだろうか」と考え込んでしまいます。お人好しで、一言も口をきけない人だったのでしょうか。けれどもお人好しが、婚約していたマリアをかばい、縁を切ろうと決意したりできるでしょうか。どんな危険が待ち受けているかも知れない道のりを、マリアとイエスを連れてエジプトまで避難出来るでしょうか。

あるいはまったく違った性格で、父親として絶対的な人物だったのでしょうか。ヨセフが厳しい父親だったことを伺わせる聖書の箇所も見つかりません。それでも、「この親にしてこの子あり」という諺が示すように、弟子を集めるイエスの統率力や、徹底的な奉仕の姿、権力の濫用を決して許さない強さ、人の悲しさに深く寄り添うことのできる感受性など、多くの部分が両親から与えられたもののはずです。ですからきっと、ヨセフがイエスに残してくれた特徴もあると思うのです。

ですから、困難に出くわす家族を最後まで守り抜いたヨセフの人柄を、どうにかして描き出したいと思うのです。そこで気がついたのが、「ヨセフは主の天使の声に、いつも忠実に従っている」ということです。それは、主の天使の言いなりということではなく、神の声に、最高の信頼を置いて生きたということです。

つまり、ヨセフは自分と家族の運命が、完全に神の導きの中にあることを理解し、すべてを、主のご命令に忠実でありたいと願って生きた人だったわけです。ヨセフの言葉が聖書から拾えないのは、ヨセフが一切を、主のみ旨に沿うように生きたしるしだと言えるかも知れません。イエスは、人として、父なる神に一切を委ねて生きるヨセフの姿を、そのまま生き写しにして生きられたのではないでしょうか。

ヨセフが、完全に神の望みに忠実であったとすれば、朗読されたエジプトへの避難とイスラエルの地への出発もまた、神の望みの忠実な再現だったはずです。かつてエジプトを舞台に繰り広げられたご計画がありました。それは出エジプトの物語です。イスラエルの民が神の望みに忠実に留まるなら、民を導いて約束の地に住まわせるというものです。

マタイ福音記者は、聖家族のエジプトへの避難とエジプトからの出発を、かつての出エジプトと重ねていたと思われます。聖家族のエジプトへの旅とエジプトからの旅は、神の望みに完全に忠実であろうとするヨセフを通して、「神が聖家族を導いて、約束の地に住まわせる」という真理を描こうとしているわけです。聖家族は、「新しい出エジプト」をわたしたちに示そうとしているのです。

聖家族の旅が「新しい出エジプト」であるなら、わたしたちも、聖家族に倣って「新しい出エジプト」を体験するよう期待されています。「新しい出エジプト」それは、「今、神の望みに忠実に留まるなら、神はその家族を導いて約束の地に住まわせる」というものです。

あなたが家族を持っているなら、その家族の中で神の望みに忠実であろうと努めましょう。家族を持たない人は、教会という神の家族の中で、神の望みに忠実であり続けましょう。忠実であろうと努力し続けるなら、神はわたしたちを導き、行く手を守り、最後には約束の地である神の国に住まわせてくださいます。聖家族の取り次ぎを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼今年最後の雑談。最近便利だなぁと思ったのはインターネット回線を利用したラジオ。たとえばNHKネットラジオらじる★らじる」。これを利用すると、NHKのラジオ第1・第2・NHK-FMが、雑音のないクリアな音質で聞くことができる。わたしは勉強していないが、NHKラジオ講座をしている人にはきっと有り難いと思う。
▼仕組みはどうなっているのか知らないが、雑音がないのは本当にありがたい。五島列島でラジオを聞いていれば、韓国の電波が邪魔をして聞きづらいという体験はだれもがしている。また、車で移動中さまざまな電波と干渉してがまんしながら聞くこともある。場所によっては(「今里バス停周辺」のことだ)雑音でまったく聞こえなくなるときもある。
▼それに比べ、「ネットラジオ」の音質はすばらしい。ただネットという制約はあるので、インターネット回線に繋がっていなければ、ラジオは流れてこない。ただ、家の中にいてラジオを安定して聞き続けることが困難な環境にある人には、どんなにありがたいことだろう。
▼まったく話は変わるが、木曜日から金曜日にかけての深夜に、デザイナー対談がおこなわれていた。工業デザイナーの奥山清行氏と、建築家の安藤忠雄氏の対談だ。彼らの仕事は、ネット上で展開される出来事とは真逆の場所にあると思う。ネット上の出来事はある部分「仮想現実」だが、デザイナーが手掛けることは「未来に残る現実」だからだ。
▼とても興味深い話だった。奥山氏がトラクターをデザインすることになって、彼の考えによると、「トラクターをデザインするのはきっかけで、自分は『農業』をデザインするのだ」と言っていた。農業に魅力を感じ、農業にあこがれるようにデザインしたそうだ。
▼安藤氏はご存知のように、独学で建築の分野での地位を築いた。「勉強出来ない子は無理して勉強せんでもええ」ときっぱり言っていた。説明が必要な発言だが、勉強出来ない子が学校の勉強で人間を量られるのはかわいそうだとおっしゃっていた。その通りだと思う。学校の勉強ができなくても、世界を変える人もいるのだから。
▼奥山氏、安藤氏、共に言っていたのが「無駄の大切さ・無駄の意味」だった。空白とか無駄が、人に何かを考えさせる。空白や無駄のないデザインは面白くないし、われわれの手掛ける仕事ではないと。「一切無駄を省いた○○」のような商品は、言ってみれば「面白くも何ともないガラクタ」なのである。
▼年の瀬押し迫って、「仮想空間」に足を置いて暮らしつつある自分に、現実の生活に足を置くように、もう一度考えさせられるひと時をもらったと思う。デザイナー対談は、もし再放送があるなら、今度は録画して繰り返し学びたい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===