待降節第4主日(マタイ1:18-24)

先週月曜日、来年2月の今村巡礼に備える徒歩特訓の号令が掛かりました。曽根教会から、仲知教会までを往復してきました。浜串の皆さんにイメージしやすいように言うと、浜串の上の道路を、鯛ノ浦港まで往復すると考えたらよいと思います。

今回は後輩司祭3人と、発起人の先輩司祭1人とわたしで訓練に出発しました。仲知教会まで峠をいくつも越えていくのですが、わたしだけ登りで遅れてついていけなくなり、息が切れ、何度か頭がくらくらして座り込みそうになりました。これで本番に間に合うだろうか、迷惑をかけるのではないかと心配になりました。

幸いに、往復20kmを何とか歩き通し、ご褒美の曽根温泉にゆっくり浸かることができました。ただし、服を脱いだときに気付いたのですが、股ずれを起こしていまして、温泉に浸かるときはかなり染みました。股が痛くなったり足が痛くなったら、それは練習を取りやめる合図です。なぜかと言うと、「股・足・痛→また明日」だからです。

今回の20km徒歩訓練、歩数で言うと3万歩でした。人生で初めて、1日に3万歩も歩きました。これは明らかに、「一緒に歩いてくれる仲間がいたから」なし遂げられたことです。1人で歩こうとしていたら、とてもこんな距離は歩けなかったでしょう。特にわたしは、ずっと遅れ気味にみんなの後を追いかけたわけですから、1度もみんなを引っ張ることはできなかった、迷惑を掛けたわけです。

でも、みんなは文句一つ言わず、わたしを気遣いながら、最後まで歩き通してくれました。だれかが一緒にいてくれるって、こんなに力強いのだなぁと、これまででいちばん感じた日でした。

今日の福音朗読は、ヨセフが、すでに母となっているマリアを受け入れようとする場面が描かれています。ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心していた」(1・19)とあるように、自分一人で目の前の出来事を受け入れることは不可能だったのです。マリアが自分の婚約者であるということは受け入れることができましたが、まだ一緒に暮らしていないのに母になっているという事実は受け入れることができなかったのです。

そこへ、主の天使が夢に現れて、事の次第を詳しく説明します。説明と同時に、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」(1・20)と促します。たった今、受け入れることは不可能だと考えたのに、夢で受け入れよと言われても、はいそうですかとは言えないはずです。

けれども、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た)」(1・24)となっています。ついさっきまで不可能だと感じていたことを、どうして受け入れることができるようになったのでしょうか。それは、夢の出来事を通して、「神は我々と共におられる」というメッセージを理解したからです。

ヨセフは正しい人、誠実な人でした。きっと律法や預言書の学びも忠実だったでしょう。すると、「神は我々と共におられる」を連想させるいろんな聖書の言葉が思い浮かんだのだと思います。

たとえば、エジプトを脱出したイスラエルの民が、これから取得するカナンの土地を偵察しますが、偵察した人のうちにはエジプトに引き返そうと言う人もいました。そこで民の間に分裂が生じます。その時偵察に行ったヨシュアとカレブは「住民を恐れてはならない。彼らは我々の餌食にすぎない。彼らを守るものは離れ去り、主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない。」(民14・10)と言います。主が我々と共におられる。恐れることはないとヨセフも思い起こしたでしょう。

また、かつて少年ダビデが、ペリシテの巨人ゴリアトと戦ったとき、「この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される。」(サム上17・47)と断言しました。戦力的には太刀打ち出来なかったイスラエル側が、「神は我々と共におられる」という思いに勇気づけられて戦いに勝利したことも、ヨセフは思い出したかも知れません。

こうして、「神は我々と共におられる」と分かったとき、どんな困難も乗り越えることができるというのがヨセフの知っていることでした。ヨセフは眠りから覚めたとき、出来事をたった一人で背負うわけではない。「神は我々と共におられる」この言葉は信頼できる。そう考えたのです。

すでにマリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(ルカ1・32)と言って、神が我々と共におられることを信頼して出来事を主に委ねていました。ヨセフも妻マリアを迎え入れ、お互いの気持ちを確かめ合ったことでしょう。自分たちだけではとても起こっていることを受け止めることはできないけれども、「神は我々と共におられる」この言葉は信頼に足りる。ヨセフもマリアもその思いは変わらなかったので、神の計画は大きく前進したのです。

人間は、神の計画をすべて理解するにはあまりにも小さな存在です。けれども、「神は我々と共におられる」この言葉を信じることだけの力は与えられています。それが、1人だけで信じて道を歩くのは困難かも知れませんが、同じ思いを持っている人がそばにいてくれたら、どんな険しい道でも歩き続けることができるでしょう。マリアとヨセフの夫婦は、今日わたしたちにそのことを教えてくれているのだと思います。

わたしも、今村徒歩巡礼のための特訓に加えてもらったとき、これを3日間も続けるなんてとてもできないと最初は恐ろしくなりましたが、わたし1人が歩くのではなくて、「神が我々と共におられる」と思うと、勇気が湧いてきました。しかも同じ思いを持つ司祭がそばに何人もいて支えてくれるので、目指す場所まで歩いて行こうという気になれました。

わたしたちの人生の歩みは、わたし1人で担っているのではありません。「神が我々と共におられる」歩みです。同じ信仰の理解を持つ人となら、さらに心強いはずです。神のご計画に従って歩み始めたヨセフとマリアに倣い、神のご計画の中にある人生の歩みを続けましょう。神に信頼して生きることを全身で示してくださる御子がもうすぐおいでになります。わたしたちも心を整え、御降誕のその日を迎えることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼大浦教会から福岡の今村までの徒歩巡礼に向けて、訓練が始まった。第3回目の訓練に、わたしは初参加した。曽根というところから、仲知というところまで歩き、弁当を食べて折り返し曽根まで歩いた。19.5kmだったが、人生で初めてこんな距離を歩いた。
歩数計で30000歩(興味のある方はfacebookの3月17日の画像参照)。こんな歩数見たことない。だが実際の徒歩巡礼の時はおよそ4万歩になるらしい。3万歩で息切れし、折り返して仲知からの最初の上り坂では酸欠で頭に血が回らず、3回くらい瞬間的に気を失いかけた。
▼こんな調子で当日の徒歩巡礼を迎えられるのだろうかと心配だが、計画の発案者であるI神父さまによると「当日は今日ほどきつい上り下りはないから、今日を乗り切れたなら大丈夫」と言ってもらった。参加者は発起人の50代司祭と、わたしと、後輩司祭4人と、バックアップに回る同級生の司祭で合計7人。
▼今まで履いていたジョギングシューズでこの日の訓練に参加したが、帰り道は親指が窮屈に感じ、思い切ってシューズを新調した。今回のシューズで、2月中旬のの徒歩巡礼には参加する。ソックスは、恩人から買ってもらったタビオのソックス。これは本当に優れもので、20km歩いても靴擦れもマメもできなかった。
▼クリスマスが目の前に近づいた。救い主の人生は「降りていく人生」だと思う。もっとも貧しいお産の場所に降りていき、もっとも命が守られてよいはずの時期に命を狙われる環境に降りていき、罪人や徴税人の仲間と中傷されてもその人々のもとに降りていった。
▼だれもが関わりを避けようとする重い皮膚病の人に近づき、目の不自由な人に光を与え、十八年間出血の止まらない女性をいやした。すべての人のもとに降りていった。きっと現代にも、さまざまな重荷を抱えて暮らす人のもとに降りていって、希望を与えてくださる。希望が持てないときにこそ、希望が必要なのだ。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===