待降節第1主日(マタイ24:37-44)

司祭研修会に参加してきました。来年の5月連休に開催される「教区代表者会議(教区シノドス)」の提言をまとめるための「集中審議」と言ったほうがよい内容でした。集中審議をしたのですから、この討議が実りある提言を大司教さまに示すことにつながればと思っています。

教会の暦「教会暦」が新しくなり、今日から待降節が始まります。典礼の周期としては日曜日ごとにマタイ福音書をおもに読み続けるA年が始まりました。イエス・キリストの生涯が描かれているのが福音書で、四福音書あるのですが、それぞれ語られる相手を意識した書き方をしています。その中でマタイ福音書は、ユダヤ人に対し、イエス・キリストこそ旧約の預言者が告げ知らせていた救い主であると説明する福音書です。

待降節についてもう少しお話ししましょう。日本の教会で、クリスマスを準備する期間を「待降節」「主の降誕を待つ季節」と呼ぶわけですが、もとの言葉はラテン語の”Adventus”「到来」という意味合いの言葉が使われています。

使われている言葉の違いは、何を強調しているかについても違いが出て来ます。もとの言葉では「キリストの到来」ということが強調されていることが分かります。日本語の「待降節」だと、わたしたちの「待つ姿勢」が強調されていると思います。ですが、本来はキリストの到来が強調されるべきです。わたしたちが待つのは、キリストがおいでになるから待つのです。

救い主の到来を待っていた多くのユダヤ人は、救い主が到来しても救い主を救い主と認めることができませんでした。ユダヤ人は今も、救い主を待っているのに到来していないと考えています。ごくわずかの人々、羊飼いや、占星術の学者たち、ほんの一握りの人たちだけが、救い主の前に膝をかがめ、その到来を喜んだのです。

キリストの到来に強調点を置くと、わたしたちの待つ姿勢もはっきりしてきます。2つ考えてみました。1つは、いつどんなときにおいでになっても、救い主を迎えることができるように準備して待つことが必要です。与えられた福音朗読はそのことを教えようとしています。

「(そのときまで)何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。」(24・39)とか、「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」(24・42)さらに「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(24・44)と言われています。

もう1つの心構えは、救い主がおいでになるのですから、何かが変わるはずです。そこで、「わたしの中で、何かが変わる」「わたしたちの教会で、何かが変わる」そういう心構えで、救い主の到来である主の降誕を待つのがよいと思います。

エスの到来は、具体的に何かを変えてくださるでしょうか。イエスの言葉から考えると、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マタイ9・13)とありますから、自分では招かれないような生活をしてきた人が、イエスがおいでになることで招かれる、そういう社会に変わります。

何かの過ちがあって、自分では元に戻せない、過去を消せないと思い悩んでいる人がいるかも知れません。そんな悩みの中にある人をイエスは招いて、変えてくださるためにおいでになります。

また、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネ10・10)とあります。今までは、何かを使ってだれかにいのちを与えることしかできませんでした。それはいつまでもなくならないいのちを与えることはできませんでした。

エスはわたしたちのもとにおいでになって、滅びることのないいのちを与えてくださいます。ご自身をいのちの糧として与えてくださいます。イエスのもとに来ること、イエスのもとに留まることで、わたしたちは永遠のいのちに満たされます。

最後に、「わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(ヨハネ12・47)と言われます。神が人を裁こうと思えば、どんなに小さなことでも見つけて裁くことはできるでしょう。けれども、どんなに罪が多くても、どんなに闇が深くても、どんなに長い隔たりがあっても、神は世を救ってくださいます。そのことを見える形で示すために、救い主はおいでになります。

こうして、今まで変えることができなかったものを、すっかり変えるために到来します。あなたが変えられるチャンスは、もうすぐそこまで来ています。救い主の到来に気付かずに通り過ぎることのないようにしましょう。クリスマスは、主がおいでになることの目に見えるしるしです。ただし、わたしが変えられるのは、クリスマスの日とは限りません。

その日その時を準備不足のために失うことのないように、この待降節の期間を大切に過ごしていきましょう。イエスの到来によって変えられた。そんな喜びのうちに、今年のクリスマスを迎えることができますように、このミサの中で恵みを願っていきましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週メルマガの配信でトラブルを引き起こしてしまった。2000文字の縮小版を作って、昔の2000文字までしか受信出来ないケータイのための説教を別に配信しているのだが、その原稿を誤って通常のメルマガを配信する人たちにも配信してしまった。申し訳ない。慌てているとこんなことになる。
▼研修会の内容をちょっと紹介する。グループ毎に提言をまとめるための討議がおこなわれたが、初日は年齢別のグループだった。いちばん高齢のグループは、司祭になって50年とか、そういうベテランのグループである。そのグループが、まとめの発表の時間に会場全体が騒然となるような事態を招いた。
▼詳しく話せないので、「ちょっとだけ」話すのだが、最年長のグループの発表者は「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」という言葉から発表を始めた。わたしは「へぇ。すごい発表だなぁ」と思いながら聞いていた。発表は持ち時間を大幅に過ぎ、それでも終わらなかった。
▼「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」ここでは提言すべきことがあるから発表している。それは当然のことである。すると、「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」というのは、どういう意味なのだろうか。「今、手を打たないと、わたしたちのような司祭になります」という意味なのだろうか。
▼わたしはこれから、もうしばらくあの発表の意味を考えてみようと思う。なぜなら、わたしたち40代の世代では、「わたしたち自身が、司教さまへの提言です」という名言は出て来ないのだから。その意味が分かるように、その意味が間違って解釈されないように、もう少し考えてみようと思う。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===