王であるキリスト(ルカ23:35-43)

皆さんにもお知らせをしておりました通り、この説教の後に、○○さんの洗礼式と堅信式をおこないます。その時を待っているお父さんである○○さんにとっては、説教などどうでもよいから、早く緊張する瞬間から解放されたいという思いでいっぱいかもしれません。どうかしばらくのあいだ説教に耳を傾け、このあと行われる秘跡にふさわしく与れるよう、中田神父の説教を最後の準備にあてて欲しいと思います。

今週は年間の最後の主日、「王であるキリスト」の祭日です。わたしたちの生活が、主キリストを王として認める生活になっていたか、振り返る日曜日です。またこれまで主キリストを王として認める生活を心がけてきた人にとっては、王であるキリストに導かれて過ごした日々をあらためて感謝する日曜日と言ってもよいでしょう。

まずは選ばれた福音朗読から、イエスはわたしたちにとってどのようなお方であるかを確認しましょう。イエスがどのような方であるかを確認するなら、その姿にわたしたちがどのように応えようとしたかも明らかになります。1つ、取り上げたい言葉があります。それは、「自分を救ってみろ」という言葉です。

議員たちが十字架上のイエスをあざ笑って言います。「選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(23・35)また兵士たちが酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言います。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(23・27)さらに十字架にかけられていた犯罪人の一人がののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(23・29)

わたしは、人々がイエスに言った言葉は、そのまま自分に返ってくると考えます。あざ笑い、侮辱し、ののしりながら「自分を救ってみろ」と言った人々。天に唾を吐く者は、自分に返ってくるのです。それと同じように、十字架上のイエスをあざ笑い、侮辱し、ののしる人は、「自分を救ってみろ」という言葉が自分に返ってくるのです。

あざ笑い、侮辱し、ののしる人が自分を救えるのでしょうか。これらの人々に罪がないと言えるでしょうか。この人たちは自分の罪を自分で清め、自らを救うことができるでしょうか。決して救えないのです。だからこそイエスは、自分で自分を救えないあわれな存在である人類を救うために、十字架上でいのちをささげてくださったのです。

王と呼ばれる人は国民のためにあらゆる努力を惜しまない人です。国民が救われるために、必要ならいのちさえも投げ出すはずです。イエスはすべての人の王として、すべての人のためにいのちを投げ出しました。たとえご自分をあざ笑い、侮辱し、ののしる人であっても、その人の救いのためにいのちを差し出したのです。十字架から降りるということは、これらイエスを憎む人々の救いを放棄することになるのです。

今日わたしたちは、イエスはわたしたちの王ですと言い表すためにこのミサに集っています。わたしのためにも、いのちをささげてくださり、わたしを王の民として呼び寄せてくださるイエスに、心から敬意を表そうと、このミサに集まっているのです。イエスはわたしたちの王ですから、わたしたちはイエスの心を曇らせるような言葉や態度を取りませんとあらためて決意するために、ここにいるのです。

長い長い時間をかけて、イエスを王として認め、受け入れた人が物語に登場しています。イエスと一緒に十字架にかけられていたもう一方の犯罪人です。イエスの右と左に十字架に付けられた人は、もはや十字架上で死ぬ以外に処罰のしようがない人たちでした。つまり、この時まで罪を重ね、神にも背を向けてきた人たちです。けれども、この長い人生の締めくくりに、イエスが王であることを理解し、自分がもし王の国民になれるのであれば、思い出してほしいと願ったのです。

エスはこの人に言いました。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(23・43)イエスを王と認めたあなたは、たとえどんなに罪があっても、たとえどんなに長い間わたしから離れていたとしても、今日わたしの国民になった。イエスは、どんなに離れていた人でも、どんなに時間がかかった人でも、わたしを王として、救い主として認めたその日から、わたしの民であると言ってくださるのです。

今日洗礼をお受けになる○○さん、今日に至るまでの道のりを少し聞かせていただきました。結婚される以前、独身時代に、個人的に洗礼のための勉強をお受けになったそうです。それから何十年時間が経ったでしょうか。神さまは長い時間を経て、もう一度声を掛けてくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒にいる」イエスは○○さんを、神の民として受け入れてくださったのです。

洗礼を受けるに当たって、もしかしたら○○さんには不安に思うことがあるかも知れません。けれども、イエスはその不安を十字架上で担ってくださいます。担いきれないと思えるような重荷を担い、救ってくださるために、イエスは今日という日を用意してくださったのです。信頼を寄せて、これから行う洗礼式・堅信式に臨みましょう。

そして、イエスは今日から早速、神の民を養う食べ物を与えてくださいます。王であるキリストは、民を常に養い、育て、導きます。今日秘跡の恵みにあずかることで、ご自身を王であるキリストに委ねましょう。王であるキリストの導きを受け入れますと態度で表しましょう。

これからは、ここに集まった皆さんが家族であり、兄弟であり、姉妹です。唯一の王をいただいている神の民として、互いに神への賛美と感謝を日々忘れないようにしましょう。

これから洗礼式と堅信式に移ります。

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ちょっとひとやすみ
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▼さまざまなものが、「自分で手に入れた」と思った瞬間に、手からこぼれ落ちていく。もともと、自分のものでないから、こぼれていくことをそれほど悲しむ必要は無いのだけれども、つい自分が手に入れるはずのもの、自分に当然権利があると思ってしまうから、しばしば失ったことを悲しみ、嘆く。
▼洗礼を受けることになったお父さんはすでに後期高齢者である。若いときにキリスト教を学ぶ機会があり、もう少しで洗礼を受けられる所まで来ていたのに、手からすり抜けていった。それから縁があって結婚することになり、その時にも違う司祭から結婚のための準備講座を受けたが、その当時の主任司祭を通しても洗礼の恵みにあずかることはできなかった。
▼チャンスを2度も逃してしまうと、たいていの場合は「自分には向いてないのかもしれない」とか「自分にはふさわしくないのかもしれない」と考えてしまうのではないだろうか。よくぞ、半世紀以上経過してからもう1度教会の門を叩いてくれたと思う。心から感謝したい。
▼わたしも、このお父さんのことは赴任直後から耳にしていたので、神さまの大きな愛で、この方の心に何かきっかけを与えてくださいますようにと願っていた。何がきっかけになったのか、年齢を重ねる中での心境の変化なのか、はたまた福見教会百周年なのか、とにかく何かがあったのでこの日を迎えることができたのだと思う。
▼主任司祭にとっても本当に感謝である。半世紀以上のためらいの中で、4年前でなく、4年後でもなく、今洗礼を受けようと希望してくださったから、わたしがその場に立ち会うことになった。仮にわたしの赴任時代に洗礼を受けなくても喜ばしいことに変わりはないが、やはりその場に立ち会うのがいちばん嬉しい。
▼本人が気に病んでいることが1つあるようだが、何も心配は要らない。心配を取り除いてくれる人たちがこの福見教会にはたくさんいる。神の家族として力を貸してくれる。どうか、この人生を福見で生きてよかったと言える日々を過ごしてほしい。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===