年間第33主日(ルカ21:5-19)

皆さんはNHK連続テレビ小説、続けてご覧になっているでしょうか。ただ今放送されている「ごちそうさん」のここ数日の放送分、わたしはまともに観ることができず、つい感情的になって観ています。

ご覧になってない方のために、夫のもとに嫁いできたヒロインがやって来た家には、人当たりがとてもきついお姉さんが居座っていました。ことあるごとに嫁に難癖を付け、覚えているだけでも2回、泣きながら「こんな家、出て行ってやる!」と家を飛び出しました。これはドラマで、作り話だと思ってはいますが、お姉さんのことを心の中で「ひどいやっちゃなぁ」と思ってしまい、観ていられません。

テレビを観ていて思ったのですが、苦しみと言いますか、迫害というものは、案外近くにあるのかも知れません。最近小さな迫害を感じていまして、高井旅のミサで、マイクのスイッチが入ってなくて、侍者に「マイク、マイク」と伝えたのです。身振り手振りまで交え、そのうちわたしは頭に血が上ってきました。ところがその侍者は「え?何ですか?」とポカンとしています。わざとなのかとすら思いました。

また、堅信式直後の浜串中学生のけいこで、堅信の秘跡を受けてどう感じたか、本人に感想を聞いて後輩の1年生にも来年への楽しみを繋いでもらおうと思ったのです。けれども聖堂は真っ暗で電気が付いていません。どういうことだと玄関の電気を付けたら、堅信をこの前受けた2年生が真面目に来てくれていて、「1年生はどうした?」と聞くと「明日から試験なので、来てないんですかね」と言います。ボイコットです。

前もって「来ることができません」と連絡があって、「明日から試験なら、今日は休もうか」ということでしたら分かりますが、最初から決めつけてボイコットするのです。わたしはやる気を失い、その日のけいこを休んでしまいました。これもちょっとした迫害であります。

ほかにも、「毎回使う物なのに、なぜ用意されていたり用意されていなかったりするの?」とか、「いくら何でも無くなったら無くなったと言うでしょう」というようなことがありまして、まさに連続テレビ小説よろしく「きっついなぁ」と感じてしまうことがあります。何か機会があったときに言ったりもしますが、これは現代の迫害なのだと思うと、「忍耐するしかない」と諦めにも似た気持ちになるのです。

今週の福音は、「苦難があり、そこで忍耐を学ぶなら、希望が開ける」こんなことを学ばせようとしているかのようです。イエスは話の結びとして、次のように仰います。「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(21:19)。忍耐について学ぶなら、わたしたちの未来には希望が待っています。今週、忍耐について学ぶことにいたしましょう。今週の説教の内容は、2004年のものを参考にしています。

きっと皆さんは、弱音を吐いているわたしなど及びもつかないような忍耐を、ふだんの生活の中で経験しているに違いありません。夫婦で一つ屋根の下にいれば、いろんなことでどちらか一方は我慢している、忍耐しているということがたくさんあるのだと思います。夫婦と言いましたが、それは親と同居している場合にもあるでしょうし、子どもと暮らすなかでも気持ちよく過ごせる日ばかりではないと思います。忍耐することは数えきれず、中田神父の弱音なんてたかが知れていると感じている方もいらっしゃるでしょう。

それ程多くの場面で忍耐を強いられているのですが、わたしたちは果たして忍耐から何かを学んでいるのでしょうか。ある意味、いちばん多く積み上げてきている徳であるにもかかわらず、そこから学ぶことがあまりにも少ないのではないでしょうか。そこで今週は、忍耐がわたしたちキリスト信者をどこまでたどり着かせてくれるのか、見極めたいと思っています。

忍耐と言っても、これまでの経験から思い知らされているように、何も学べずに終わる忍耐もあり得ます。憎しみを心に抱いたまま、我慢し続けている。それも忍耐なのでしょうが、おそらくそのような忍耐は不毛なのだと思います。忍耐することで何かをいただく、イエスに少しでも触れることができるように、要点を押さえてみましょう。

エスの言葉から確かに言えることは、忍耐する人は、命をかち取るということです。どんな命でしょうか。「中には殺される者もいる」(16節参照)と仰ったのです。殺されてもなおかち取ることのできる命、それは神が与えてくださる永遠の命です。滅びることのない、だれからも取り上げられることのない神の命です。わたしたちは忍耐によって神の命をかち取るのです。永遠の命を得るのであれば、それはわたしたちが神と出会っていることと何ら変わりません。忍耐によって、わたしたちは神と触れ合うことになるのです。

忍耐のすばらしさをいろんな面から確かめることにしましょう。3つ取り上げてみたいと思います。その1つ、まことの忍耐は、愛を現します。誰かの介護をしている人がいるとして、お世話している人の着替えを手伝うこと一つ取り上げても、しばしば忍耐を求められます。まことの忍耐を積む人は、お世話しているその人に、わたしの心の中の愛を現しているのです。あるいは食事の介助をしている時でも、まことの忍耐を積むことで目の前の相手に、またその相手を通して神に、わたしの心の愛を現すことになります。

忍耐が愛を現すことが分かれば、そこから次のことも考えるに違いありません。わたしはこれまで介護に携わってきたけれども、愛を現すチャンスに変えてこなかった。忍耐していたけれども、わたしは苦しい思いだけを積み上げてきた。今日から、愛を現す忍耐へと気持ちを向けていきましょう。すぐにはそうならないかも知れませんが、まことの忍耐は、人間を救うためにあらゆることを忍耐された神の業に、参加するまたとない機会なのです。

次に、忍耐はわたしに与えられた生き方を完成させるものです。結婚生活に置かれている人、修道生活に召されている人、司祭に召された人、いろんな生き方に神はわたしたちを置いてくださっていますが、いずれの生き方(召命)についても、忍耐なくしてはそれぞれの道を全うすることは叶いません。キリストはそのことを身をもって示してくださいました。イエス・キリストは「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐する」(エフェソ4:2)模範を残してくださったのです。こうして、人としての一生を全うして、わたしに倣いなさいと招いておられるのです。

忍耐せずに置かれた生き方を全うできるならどれほど楽でしょう。現実は、そんなに簡単なものではありません。どんな生き方に召されていても、たとえ他人からは暢気に暮らしているように見えても、完成するためには忍耐が必要なのです。忍耐する覚悟を持たずに逃げようとすれば、完成できずに人生を終えることになるのです。

さらに、忍耐することでわたしたちは真の神の子らとなります。神は人間を愛し赦し救うためにあらゆる忍耐を通ってこられたのですが、わたしたちがまことの忍耐を積むなら、そのままわたしたちは神に似る者となります。同時に忍耐する人は、心の柔和・謙遜なイエスの弟子となることができるのです。

これほどの高みに、忍耐はわたしたちを運んでくれるのです。以前もわたしたちは数多くのことを忍耐してきました。場合によっては我慢ならないことすら耐え忍んできたのです。ですが、なかなかそのことがわたしを清め、キリストに似る者となる機会に結びついていませんでした。

今は違います。忍耐する時、わたしは一歩ずつ真の神の子、イエスの真の弟子に近づいているのです。苦難は忍耐を生み、忍耐する人はイエスによって希望を手に入れるのです。

最後に、聖書の中でいちばん忍耐について話してくれた聖パウロの言葉を紹介しておきます。コリントの信徒への手紙二の引用です。少し長いですが、彼の心の叫びに耳を傾けましょう。

「だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。

苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(IIコリント11:21-27)。

先にこれほどの忍耐を積んだ人が、忍耐によってわたしたちをどこまで運んでくれるか、教えてくださっているのではないでしょうか。

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ちょっとひとやすみ
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▼先週の上五島地区堅信式。受堅者代表挨拶をしたのは●教会の受堅者だった。ほぼ100%原稿を手に持って読み上げるものと思っていたが、その中学生は原稿を手に持っていなかった。堂々と、自分の言葉で、大司教へのお礼の言葉を述べた。
▼わたしは大いに感心した。なかなか自分の言葉でこうした挨拶を述べる人はいない。最近社会では謝罪会見ですら原稿を読み上げ、深々とお辞儀をしているが、そういうのは謝っている気持ちが伝わらない。そんな風潮にあって素朴な言葉でいいから、自分の言葉で言い切った今回の受堅者代表挨拶に敬意を表したい。
▼子供たちを含め、信徒の信仰教育に重大な責任を持っている司祭は、洗礼者ヨハネのようであるべきだというのがわたしの持論である。ヨハネ福音書3章29節に「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」とある。
▼いつでも主人公は信徒であるはずだ。信徒にスポットライトが当たるように立ち回る。信徒にキリストの光が当たるように振る舞う。それが司祭の仕事だ。何か遠回しに主任司祭に光が当たるように仕向けるとか、主任司祭がちやほやされないと虫の居所が悪いというのは、どこの世界にもありがちだが、司祭にあってはそういう話は聞きたくない。
▼これだけ言ったのだから、「いろいろ言っておいて、お前も同じか」と言われないように、よくよく気をつけようと思う。洗礼者ヨハネは、徹底して洗礼者ヨハネでなければならない。花婿であるイエスに常に信徒を近く留まらせる。司祭にそれ以外のことは要らない。
▼おまけ。2004年の原稿を参考にしたところ、2004年の原稿に誤変換していた箇所を見つけた。(誤)「苦しい重いだけを積み上げてきた」は(正)「苦しい思いだけを積み上げてきた」とするべきだが、誤変換した原文のほうも、よく読めば味わいがある(笑)

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===