年間第32主日(ルカ20:27-38)

昨日は大司教さまが小教区を公式訪問してくださいました。大司教さまは午後3時に浜串入りしましたが、ミサが始まるまでの1時間半ほど、主任司祭から浜串教会の現状について報告をしまして、また大司教さまからの質問を受けたりして時間を過ごしました。

大司教さまは小教区を公式訪問されると、決まって教会の台帳に目を通し、署名をなさることになっています。わたしも最新の状態に更新された台帳を提出し、署名してもらいました。2010年4月からの4年間で、洗礼を受けた子供が4人、初聖体を受けた子供が5人、堅信を受けた子供が18人、結婚式が1組、亡くなった方が31人です。

台帳に目を通していただく間に、秘跡を受ける人は目に見えて少なくなり、亡くなる方が目に見えて増えていることを大司教さまに正直に報告しました。こうして大司教さまは、小教区の主任司祭が何を心配しているのか、直に話を聞いていただくことで実感できるのだと思います。

いよいよ、小教区の2人の中学2年生が堅信の秘跡を受けます。堅信の秘跡を受けるにふさわしい信仰の理解を持っているか、試験もしました。200点満点の試験で、口頭試験が50点、筆記試験が150点の200点満点です。実際は、もしかしたら試験で苦しむ人がいるかも知れないという親心で、筆記試験には160点分くらいの問題が埋め込まれています。ですからすべてを完璧に答えることができれば210点ということになりますが、仮に完璧な答案でも、本人には200点と伝えております。

今回も試験は楽々クリアしました。これで、午後2時からの青方教会での堅信式に、安心して臨むことができます。堅信の秘跡を受けた2人には、これからは大人の仲間入りをしたカトリック信者として、主任司祭は要求もするし、期待もするということです。

今週の福音朗読は、「復活についての問答」です。イエスの時代、人が死んだのち復活するかどうかは、意見が分かれていました。サドカイ派の人々はモーセ五書(創世記・出エジプト記レビ記民数記申命記)に明確な復活の記述がないことから、復活を否定していました。

ですが当時の人々の中には、人は死んで復活するのではないか、と考えている人もかなりいました。そこでサドカイ派の人々は復活についてイエスに問いかけるわけです。彼らは復活があるとしたら混乱することになるような難問を用意して、これに答えられるかと迫ったのでした。

この世では、全くもって不条理なことがたくさんあります。選ばれた朗読福音の、長男が子を残さずに死に、その長男の跡継ぎを残すために次々に長男の妻をめとったにもかかわらず子を残さずに死んでいく。本当にかわいそうな話だと思います。

他にも、幼くして死んでいく命や、事件や事故、戦争や権力者の犠牲になる弱い立場の人々もいます。本当にやりきれない思いになります。わたしよりも若い人の葬儀をしなければならない時がありましたが、どうやってご家族に信頼と希望を持ってもらうか、大変悩みました。

こうした不条理を目の当たりにする時、人の一生がこの世だけで終わるということは、受け入れられないのです。この難問に、イエスは答えてくださいました。人にはみな復活への希望があって、復活にふさわしいとされた人々の在り方は、この世の在り方とは違うということです。

この世では、次の世代に命を繋ぐことが大切です。結婚も、いのちを次の世代につなぐ大切な役割があります。ですが、復活にあずかる人は、もはやその思いに縛られる必要が無いのです。イエスが言うように、「めとることも嫁ぐこともない」兄弟姉妹のような生き方となるのです。

ただし、興味は尽きません。この世に生きている間、祖父母や父母を天国に送り出した人もいます。自分たちがいよいよ旅立つ時がやって来て、祖父母や父母を、どのように実感するのでしょうか。会話のできる年齢にも届かず、幼くして旅立った子どもたちがいる場合、その幼い赤ちゃんと、復活の時どのように出会うのでしょうか。興味は尽きませんが、そこまでは示されていません。

いずれにしても、復活を否定する人々に、イエスは復活が必ずあることを明言し、ご自身が復活なさって、復活した人の在り方がこの世の在り方とは違うことを弟子たちに証明なさいました。復活したイエスは家の戸の鍵を閉めていた部屋の中においでになりましたし、弟子たちの見ている前で天に上って行かれました。

最後に今週の学びを得ることにしましょう。わたしたちはこれから、どのような生き方が必要になるでしょうか。それは、復活への希望を証しする生き方です。参考として3つのことを示しておきます。

まずは、復活への希望の源であるキリストに、生活の一部を用いることです。ミサに参加することや、教会の行事、婦人会の行事、上五島地区全体の行事などに参加することは、自分たちが復活したイエスに希望を置いていることを証しするよい方法です。それを見て、他の多くの人も復活への希望に生きる意義を考えることができます。

次に、今月は死者の月です。すでに亡くなった方を墓地に訪ねて行って、復活への希望を語りかけてみましょう。わたしたちは生きて復活への希望を抱いていますが、墓に眠る人々は、少し在り方は違いますが、復活への希望のうちに神のもとで生きています。復活への希望をともに語り合うなら、キリスト教でない人々に必ず影響を及ぼすでしょう。

最後に、可能なら、めとることも嫁ぐこともなく、神によって生きる生き方に人生を賭けてみましょう。復活の希望を持たない人には、この生き方は無意味です。けれども、復活の希望を持つ人にとっては、人生をかけることができるほどの賭です。わたしはこの人生を賭けた証しに生きてみたいと思っています。

あなたにとって、復活への希望を証しする生き方はどのような形になるでしょうか。自分なりの証しの生き方を持ちながら、同じ復活への希望を知らない人々にも生き方を示すことができるよう、今日のミサの中で恵みを願いましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼11月9日には大司教の小教区公式訪問があり、10日には上五島地区堅信式があるのだが、この原稿を書いている金曜日時点では(最終的には土曜日の夜中に書き上げたが)どんなことが起こるか分からないので、4日に実施された「土井ノ浦キリシタン洞窟ミサ」について少し書いてみたい。
上五島の教会に赴任してから4年になるが、土井ノ浦小教区ではいつの頃からか毎年「キリシタン洞窟ミサ」を実施するようになっている。「キリシタン洞窟」とは、五島でのキリシタン迫害時代に、迫害を逃れてキリシタンが隠れ住んだと言われる洞窟があり、その洞窟のある無人島に上陸してミサをささげ、先祖の信仰を思い起こし、自分たちの信仰を確認するものである。
無人島で、しかも10月11月は季節風が吹き、予定を組んでもその日に上陸できないこともある。そのため、4年間で2回しか、実際に上陸してミサをすることは実現していない。あとの2回は、現地の近くまで船を出し、場所を見てから土井ノ浦教会に戻ってミサをしている。
▼幸いに、今年の洞窟ミサに参加することが出来、実際に上陸してミサをささげた。参加した信徒は100人を超えていた。上五島地区のほとんどの司祭も参列し、迫害を逃れて信仰を守ることを選んだ先祖たちの強い気持ちをミサの中で思い巡らした。
▼100人以上のミサを無人島で実施するために、土井ノ浦小教区の主任司祭はじめ、信徒の皆さんは本当に苦労されていると思う。そのご苦労を心からねぎらいたい。祭壇として使用するテーブル、司祭のためのパイプ椅子、電子オルガン、簡易放送施設、その他の道具、またミサが終わったらその場で立派な食事も振る舞われた。
▼食事は、五島では昔からお祝い事に用意されているまんじゅう(ふくれ餅)、現地でさっとゆがいて用意するそーめん、さらにブリの刺身。刺身は鮮度を維持するため氷をびっしり敷き詰めた発泡スチロールの箱が用意され、さらに身が低温やけどをしないようにビニールを敷いてその上に美しく盛りつけされていた。美味しいはずである。
▼ただ心配事もあった。一つの小教区が準備する行事としては経費の負担が大きすぎるという点だ。上陸するために海上タクシーもチャーターしている。何か、重い負担にならないような工夫があればいいと思った。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===