年間第31主日(ルカ19:1-10)

最近半沢直樹というテレビドラマが話題になりました。この主人公の信念が「やられたらやり返す。倍返しだ。」というものです。あちこちでこのセリフが使われましたので、皆さんの多くもこのセリフはご存知でしょう。

ところで、倍返しの考え方は今に始まったことではなく、聖書の中にも登場します。旧約聖書の中には14箇所も出てきまして、その中でぴったり当てはまると思われる用法が3箇所見つかりました。どれも、「他人の持ち物に損害を与えた場合、その人は二倍にして償わなければならない」というものです。

例として出エジプト記22章3節には「もし、牛であれ、ろばであれ、羊であれ、盗まれたものが生きたままで彼の手もとに見つかった場合は、二倍にして償わなければならない。」とあります。「損害を与えた場合の償いは倍返し」というのが、旧約時代から適用されていたのです。

さて倍返しの話はこれくらいにして、今週の福音朗読では「四倍返し」の話が登場します。ザアカイはイエスから「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」(19・5)と言われて、喜んでイエスを招待し、もてなしました。その席上でザアカイはこう言ったのです。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(19・8)

ザアカイは何となく、「四倍にして返します」と言ったのでしょうか。「二倍にして返します」という言い方も可能だったはずです。ザアカイは徴税人の頭でしたが、聖書の知識があったかも知れません。そこで「四倍にして返す」という表現が旧約聖書の中に出て来ないか、調べてみました。すると1箇所だけ見つかりまして、しかも場面にうってつけの箇所でした。

該当箇所は、サムエル記下の12章5節から6節です。これだけではピンと来ないかもしれませんが、ダビデ王がウリヤの妻を奪った話と言えば思い出す人もいるでしょう。王の過ちを咎めに来た預言者ナタンが、ある金持ちが友人をもてなす時に、自分の家畜を料理に回すのを惜しんで、家畜を一匹しか持たない貧しい人から取り上げたというたとえを話しました。

それを聞いたダビデ王が激怒してこう言うのです。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」これに対して預言者ナタンは王に答えました。「その男はあなただ。」旧約聖書にはこの1箇所だけ、「四倍」に関連する引用があります。

もしかしたら、徴税人ザアカイは、ダビデ王の過ちを預言者ナタンが叱責するこの箇所を知っていたのかもしれません。無慈悲なことをした人に対して四倍の償いを要求するダビデ言葉を自分に当てはめ、たとえ自分が無慈悲なことをしていないとしても、仲間の徴税人が無慈悲なことをしたかもしれない。ザアカイは徴税人の頭として、仲間の過ちにも責任を感じ、自分が四倍にして返すと、答えたのではないでしょうか。

「四倍にして返す」とは、どういう意味があるのでしょうか。一般的な損害の賠償でしたら、二倍で十分償いができるかもしれません。しかし人のいのちに関わる賠償でしたら、何倍あっても償いきれないはずです。

もし、ザアカイの知らないところで徴税人の仲間が無慈悲な取り立てをして、人のいのちを危険にさらしていたとしたらどうでしょう。彼は責任を感じて、かつてダビデ王が「小羊の償いに四倍の価を払うべきだ」と言ったことに倣って、「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言ったのかもしれません。

彼は今、「すべての人のいのちに無関心でいられない方、イエス」を前にしているのですから、徴税人の頭という立場で負い目があるかも知れないので、心から悔い改め、イエスによる救いを求めていたのだと思います。

わたしたちは神に何倍返す必要があるでしょうか。人と人との間で発生する損害は、十分に配慮して、必要な賠償や償いを果たしているだろうと思います。同じことを、わたしたちと神との間で配慮して生活しているでしょうか。

わたしたちが神に背負わせてしまっている欠点・不足・罪を、日々の生活の中で、ミサに参加する中で、償っているでしょうか。人と人との損害は、いのちに関わるものはそう多くはないと思いますが、神に背く罪の中には、わたしたちの救い、永遠のいのちに関わる重大な罪もあり得るのです。

「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」(19・10)ザアカイは、自分が本来あるべき場所から失われたものであり、イエスに捜し出してもらわなければ、救われないことを理解していました。

わたしたちも、本来あるべき場所から迷い出た者であり、自分で元の場所に戻ることができない存在なのです。そのことをなかなかわたしたちは認めることができません。ほんのわずかでも高い木に登って、「わたしはあの人とは違う」「あの人よりはましだ」と考えようとするのです。

実際は、だれ一人、自分で救われることはできないのです。人とは違うと言い張っているその場所から降りて来なければ、わたしたちはイエスと出会うことができないのです。
神からすべてを請求されるなら、わたしたちは本来償いきれないいのちです。日々自分自身を神に委ねる謙虚さを保って生活しましょう。つねにイエスに捜し出してもらえるように、「わたしはここにいます」と祈りの声を上げることにしましょう。

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ちょっとひとやすみ
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▼10月31日、夕方の福見教会のミサで、子どもたちに問いかけた。「今日は何の日ですか。」すぐに子供の1人が手を挙げて、「ハロウィンです」と答えた。100%、わたしからお菓子をせしめるために答えた答えなのだが、わたしはそれだけでお菓子を巻き上げられるのは面白くないので、続きの質問をした。
▼「では明日は何の日ですか。」途端にだれも手を挙げなくなった。11月1日の「諸聖人の祭日」がなければ、「ハロウィン」も何も意味がなくなるのに、まったく諸聖人の祭日は無視された。説明をして、「諸聖人があるから、ハロウィンがあるんだよ」と話す。
▼更に、「では11月2日は何の日ですか。ここまで答えられないとお菓子はあげられないなぁ。」すると子どもたちはがぜん真剣に考えるようになり、「だれか答えて!」とお互いに目配せするようになる。
▼奇跡的にだれかが、「死者の月」と答えた。「それは、11月全体の教会の呼び名だねぇ。そこまで分かっていたら答えられるよ。11月2日は何の日でしょうか。」何とか死者の日と言ったような気がしたので、ハロウィンの仮装がなくても楽しい子どもたちに、お菓子をあとで配ってあげた。

===-===-===-=== † 神に感謝 † ===-===-===-===-===